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| レアルマドリード歴代選手情報 |
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| バルダーノ/Jorge Alberto Valdano Castellano |
| 活躍の舞台をスペインへ |
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ホルヘ・アルベルト・バルダーノ・カステリャーノは、1955年10月4日にアルゼンチンのサンタフェ州ラサ・パレハスで生まれました。アルゼンチンの多くの子供と同様、バルダーノ少年も幼い頃はサッカーに夢中。15歳まで通りでボールを蹴っていましたが、プロへの第一歩を切るため真剣に取り組むようになりました。
16歳になるや否や、バルダーノは、アルゼンチンの名門クラブ、ニューウェルズ・オールド・ボーイズに加入。2年間、下部組織で過ごしました。1973年8月5日のフェロ戦でアルゼンチン・リーグでデビュー。バルダーノは、2年間で49試合に出場して11得点を挙げました。
バルダーノは、アルゼンチンのユース代表に何度も招集されるようになりました。1975年のトゥーロン国際大会で優勝。テクニックを持つストライカーと言う評判がヨーロッパ、正確には、スペインで広がりました。
1975年5月、スペイン2部リーグのアラベスの取締役、ホセ・マリア・サラガが、バルダーノをスペインサッカーへと導きました。(サラガは、レアルマドリードのキャプテンも務めた名選手) |
アラベス入りしたバルダーノは、4年間、2部リーグでプレイ。類い稀な才能により1部リーグの複数のチームがバルダーノのプレイに興味。バルダーノはサラゴサと契約を交わしました。1979年9月9日、リーグ開幕戦のバルセロナ戦で1部リーグでデビュー。バルダーノは1部リーグ初ゴールでデビュー戦を飾りました。
その身のこなし、両足でのボール捌き、素晴らしいヘディング・シュートは、他のチームの監督や幹部を唸らせました。レアルマドリードは、バルダーノの移籍でサラゴサと話し合いを開始。調整は容易につくと思われましたが、バルダーノは、サラゴサとの契約を終えて自由契約となるまで待つ必要がありました。
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| レアルマドリードへ移籍 |
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1984年7月16日、バルダーノは、レアルマドリードと契約を交わしました。29歳となっていたバルダーノは、レアルマドリードと同様、アルゼンチン代表に選手生命を捧げることとなりました。(バルダーノのレアルマドリード加入は、直後に訪れる”キンタ・デル・ブイートレ”時代の幕開けと重なります。)
バルダーノのレアルマドリードでの公式戦デビューは災難が伴いました。素晴らしいプレシーズンを送った後、リーグ開幕戦でウォームアップ中に筋肉を伸ばしてしまいました。この怪我のためリーグでの最初の8試合に出場できませんでした。復帰後は欠場することなく、1年目の活躍は目を見張るものがありました。
バルダーノは、リーグでチームトップの17得点を記録。レアルマドリードは、5位(UEFAカップ出場権獲得)に入りました。また、UEFAカップで4得点を記録。決勝戦でもゴールを挙げてレアルマドリードのUEFAカップ初制覇に貢献しました。(バルダーノは、ブトラゲーニョと共にアンデルレヒト戦の逆転劇を演出)
また、コパデラリガでもバルセロナ、スポルティング・ヒホンとアトレティコ・マドリードを下して初優勝を達成しました。 |
1985年−1986年のシーズン、バルダーノは、リーグで16得点(チームではウーゴ・サンチェスに次ぐ第2位)、UEFAカップで7得点を記録。リーグとUEFAカップ優勝に貢献しました。(バルダーノは、サンティリャーナと共にUEFAカップのボルシアMG戦の逆転劇を演出)
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| ワールドカップ・メキシコ大会で優勝 |
アルゼンチン代表に関して、バルダーノは、1975年7月18日にモンテビデオで行なわれたウルグアイとのニュートンカップでデビューを果たしました。
栄光の瞬間がやって来ました。バルダーノは、1986年のワールドカップ・メキシコ大会でアルゼンチン代表入りしました。アルゼンチンは決勝戦でドイツを3対2で下して優勝。”11番”を付けたバルダーノは7試合全てフル出場。4得点を挙げてマラドーナと共に優勝に貢献しました。
アルゼンチン代表での最後の試合は1990年3月28日にグラスゴーで行なわれたスコットランドとの親善試合でした。アルゼンチン代表で通算22試合に出場して7得点を記録しました。
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| 悲劇的な引退 |
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チャンピオンズリーグ制覇を夢見た1986年−1987年のシーズンが始まりました。ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、サンチスとパルデサが形成した”キンタ・デル・ブイートレ”、ウーゴ・サンチェスやフアニートと共にバルダーノは、主要メンバーとして先発起用されてチームも勝利を重ねて好スタートを切りました。
しかしながら、バルダーノを悲劇が襲いました。バルダーノは、いつもらしからぬプレイでフィジカル面がベストな状態でないまま数節を過ごしました。このため、クラブのメディカル・サービスが検査を行いました。その結果は、B型肝炎であることが判明・・・ |
1987年3月1日に行われたリーグ第29節のサバデル戦がバルダーノの現役選手最後の舞台になりました。病気療養のためには、長期の休養を必要としていたため、バルダーノにとってのシーズンが終わりました。最悪の事態でしたが、この偉大なる選手のキャリアの終わりの時がやって来ました。1987年6月30日、バルダーノは、レアルマドリードの選手として現役生活に終止符を打ちました。
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| 権威ある監督に |
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1988年−1989年のシーズン、バルダーノは、レアルマドリード・フベニールBの監督に就任しました。その後の2年間は監督業から離れてメディア(カデナ・セールやテレマドリードなど)の仕事に携わりました。
1992年4月14日、テネリフェが、ホルヘ・ソラリ監督に代わりバルダーノに監督就任を要請。バルダーノは、4月19日のリーグ第31節のバレンシア戦からチームを指揮。テネリフェは、リーグ16位に低迷していましたが、バルダーノは、3勝3分1敗で乗り切り、13位でシーズンを終えました。
テネリフェの再建が引き続き目標となりました。地味なチームでしたが、リーグで上位に食い込むチームへと変貌。翌シーズン、バルダーノは、テネリフェを5位に導きUEFAカップの出場権を獲得しました。(クラブ史上初の快挙)
1993年−1994年のシーズン、テネリフェは、初出場のUEFAカップで快進撃を続けましたが、3回戦でユベントスに敗れてベスト16で涙を呑みました。シーズン終了後、バルダーノ監督は辞任しました。 |
1994年−1995年のシーズン、バルダーノは、レアルマドリードの監督に就任。バルダーノ監督は、10月29日のリーグ第9節のサラゴサ戦で17歳のラウルをリーグでデビューさせました。得点王のサモラーノ、アマビスカ、ラウドルップが活躍。就任1年目でリーグ優勝を達成しました。
バルダーノ監督は、1996年1月21日のリーグ第22節のラヨバリェカーノ戦で監督を辞任。1996年11月にバレンシアの監督に就任。11月30日のリーグ第15節のセルタ戦からチームを指揮。2対0でデビュー戦を飾りました。1997年9月14日のリーグ第3節のラシン・サンタンデール戦で監督を辞任。
2000年4月、フロレンティーノ・ペレスが、レアルマドリードの会長に就任。バルダーノは、レアルマドリードのスポーツ統括部門の最高責任者に就きました。2004年5月、ペレス会長の2期目でバルダーノ・スポーツ統括部長は、エミリオ・ブトラゲーニョ同補佐に職を引き継ぎました。
2006年3月1日、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムのパルコで行なわれたレアルマドリード−UEM大学開校のプレゼンテーションに出席。(バルダーノは同大学の統括部長)3月25日、サッカースクールのプロモーション活動で訪れていたメキシコでヘリコプターの墜落事故に遭い重傷を負いました。
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| 基本情報 |
| 生年月日 |
1955年10月4日 |
| 出身地 |
サンタフェ(アルゼンチン) |
| 国籍 |
アルゼンチン |
| 身長 |
188センチ |
| 体重 |
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| 選手 |
| ポジション |
フォワード |
| レアルマドリード在籍 |
1984年7月16日−1987年6月30日 |
| 1部リーグデビュー |
1979年9月9日 サラゴサ対バルセロナ |
| 代表デビュー |
1975年7月18日 ウルグアイ対アルゼンチン |
| 代表最終出場試合 |
1990年3月28日 スコットランド対アルゼンチン |
| 代表出場試合数 |
22試合(7得点) |
| 監督 |
| 契約 |
1994年−1996年 |
| 1部リーグデビュー |
1992年4月19日 テネリフェ対バレンシア |
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| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 1972年−1973年 |
ニューウェルズ・オールド・ボーイズ(アルゼンチン) |
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| 1973年−1974年 |
ニューウェルズ・オールド・ボーイズ(アルゼンチン) |
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| 1974年−1975年 |
ニューウェルズ・オールド・ボーイズ(アルゼンチン) |
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| 1975年−1976年 |
アラベス/2部リーグ |
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| 1976年−1977年 |
アラベス/2部リーグ |
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| 1977年−1978年 |
アラベス/2部リーグ |
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| 1978年−1979年 |
アラベス/2部リーグ |
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| 1979年−1980年 |
サラゴサ |
34 |
10 |
|
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- |
- |
- |
| 1980年−1981年 |
サラゴサ |
17 |
3 |
|
|
- |
- |
- |
| 1981年−1982年 |
サラゴサ |
29 |
9 |
|
|
- |
- |
- |
| 1982年−1983年 |
サラゴサ |
34 |
17 |
|
|
- |
- |
- |
| 1983年−1984年 |
サラゴサ |
29 |
8 |
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- |
- |
- |
| 1984年−1985年 |
レアルマドリード |
26 |
17 |
2 |
0 |
C3 |
10 |
4 |
| 1985年−1986年 |
レアルマドリード |
32 |
16 |
4 |
1 |
C3 |
11 |
7 |
| 1986年−1987年 |
レアルマドリード |
27 |
7 |
2 |
1 |
C1 |
4 |
1 |
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| タイトル(選手) |
| アルゼンチン |
| リーグ |
1973年 |
| スペイン |
| リーグ |
1985年−1986年 1986年−1987年 |
| コパデラリガ |
1984年−1985年 |
| ヨーロッパ |
| UEFAカップ |
1984年−1985年 1985年−1986年 |
| インターナショナル |
| ワールドカップ |
1986年 |
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| 監督経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
| 試合 |
勝 |
引分 |
負 |
| 1988年−1989年 |
レアルマドリード・フベニールB |
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| 1991年−1992年 |
テネリフェ |
8 |
4 |
3 |
1 |
| 1992年−1993年 |
テネリフェ |
38 |
15 |
14 |
9 |
| 1993年−1994年 |
テネリフェ |
38 |
15 |
6 |
17 |
| 1994年−1995年 |
レアルマドリード |
38 |
23 |
9 |
6 |
| 1995年−1996年 |
レアルマドリード |
22 |
9 |
6 |
7 |
| 1996年−1997年 |
バレンシア |
28 |
10 |
9 |
9 |
| 1997年−1998年 |
バレンシア |
3 |
0 |
0 |
3 |
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| タイトル(監督) |
| スペイン |
| リーグ |
1994年−1995年 |
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