|
|
| レアルマドリード歴代会長情報 |
|
|
|
|
| サンティアゴ・ベルナベウ/Santiago Bernabeu
de Yeste |
| 人の良い”ラ・マンチャの男” |
 |
サンティアゴ・ベルナベウ・デ・イエステは、1895年6月8日にアルマンサ(アルバセテ)で生まれました。
オンテニエンテ生まれですが、アルマンサに居を構えた弁護士、ドン・ホセ・ベルナベウ・イバニェスとカマンゲイ(キューバ)出身のアントニア・イエステ・ヌーニェスの7番目の子供でした。サンティアゴ少年が5歳の時、一家はマドリードへ引っ越しました。
兄弟の3人の男の子、アントニオ、マルセロとサンティアゴは、サン・ロレンソ・デル・エスコリアルのコレヒオ・デ・ロス・パドレス・アグスティノスへ入学しました。直ぐに、同じ学校で兄弟の仲間入りするサンティアゴの番がやって来ました。 |
サッカーは、兄達と共に、ベルナベウの熱中するものの中で、”住民票”を得るようになりました。修道院の固い地面でサッカーを始めました。”足代”は、寄宿生が熱中して支払う”献金”でした。サンティアゴ・ベルナベウは、注目されるサッカー選手であると同時に優秀な学生でもありました。
サッカーは、自らの生活の中で最優先の物に形成されていき、身体に入り込んでいきました。ベルナベウ自身が、クラスでチームを作り、キャプテンに任命されました。1902年、レアルマドリードの創立の年、学校対抗の大会で初優勝を達成しました。
14歳の時、エル・エスコリアルの寄宿生活を止めて、アルマンサへ戻りました。そこで、夏以降、再び勉強を始めましたが、運命は別の目標を取って置きました。夏休みの間、サンティアゴの母親、アントニアが亡くなりました。家族のそれぞれの計画は、180度方向転換することとなりました。
ベルナベウ家は、マドリードへ引っ越しました。ベルナベウ家の末っ子は、インスティチュート・カルデナル・シスネロスの”バチリェラート”(高等部)を終了しました。ここから、サッカーが、サンティアゴの人生で最も重要なスペースを占めていきました。
後に続くお手本として、兄のマルセロとアントニオがいました。マルセロは、優れたディフェンダーで、また、アントニオは、印象的なミッドフィールダーでした。マドリードの別のクラブ、ヒムナスティカ・エスパニョーラで何試合かプレイした後、サンティアゴ・ベルナベウは、逸話と共にマドリードFCに加入しました。
当初、マドリードFCは、ゴールキーパーに入ることを望みましたが、兄のマルセロは、サンティアゴの高い資質を見て、「センターフォワードにお前を置くか、そうじゃなければ、プレイするな。」と告げました。プレイすることとなりました!サンティアゴは、オ・ドンネルの古いサッカー場でのチームの練習を一度も休みませんでした。
|
|
|
|
| マドリードFCでデビュー |
 |
1913年−1914年のシーズンまで、サンティアゴは、マドリードFCの一軍でデビューすることはありませんでした。(1912年3月3日、イングリッシュ・スポーツと言うチームとの親善試合で初出場、初ゴールを記録。)
先発メンバー:カルセル:マルセロ・ベルナベウ、イルレタ:アラングレン、マチンバレナ、カステル:ロドリゲス・エギノア、サンティアゴ・ベルナベウ、フアントレナ、サウラ、ソテーロ。
サンティアゴ・ベルナベウのデビューは、成功裡に終わりました。その時以降、不動の先発選手となりました。ベルナベウは、財務団体の職員として転任したオビエドで過ごす必要のあった短期間を除いて、16年間、レアルマドリードでプレイ。
マドリードFCで自身のサッカーの最高のものを捧げる一方、好成績を修めた法科コースで勉強しました。コースを終了した時、現役選手を引退。当時の国内で最高のセンターフォワードでしたが、バスクやカタルーニャの選手が、実質的に勝ち得ない障害となったスペイン代表以外、選手として、あらゆることを成し得ました。 |
監督、役員会メンバー、会長
サンティアゴ・ベルナベウは現役を引退、自身の仕事が絶えず出張を強いていましたが、レアルマドリードとの繋がりが残っていたのは事実です。1926年、フアン・カルセルがチームの監督を辞任、後任としてOBのペリス(ペドロ・リョレンテ・ロペス)を指名しました。サンティアゴ・ベルナベウの助言があったのでしょう。
リョレンテ監督に加えて、その後のベラオンド監督(1927年−1929年)やキランテ監督(1929年−1930年)のアドバイザーを務めました。一軍の責任を取ったに違いないと言う理由から大成功を収めた時期でした。それは、20世紀初頭、南米遠征で選手の中にあった信頼でした。選手自らが、サンティアゴが行かないのであれば遠征を拒否するとして遠征団の団長にサンティアゴを選びました。
ベルナベウは、南米遠征でレアルマドリードに大きな成功をもたらしました。帰国後、ボラルケ候、ウルキホ会長の役員会のメンバーに選ばれました。この時以降、ベルナベウは、スペインサッカー史上に残る最もセンセーショナルな選手補強を行ない始めました。
レアルマドリードに最初にやって来たのは、殆ど信じられませんでしたが、イルンの最高のウイング、ルイス・レゲイロでした。数年後、会長時代、ディ・ステファノ、プスカス、ドミンゲス、サンタマリア、ヘント、リアル、コパ、アマンシオ、ピーリ、ソコが加入。そのリストにはレアルマドリードで輝かしい結果を残したスペイン人選手や外国人選手が際限なく続きます・・・1931年から1936年にかけてレアルマドリードは重要な勝利を挙げました。
ベルナベウが、役員会での最大の功労者の一人であったと言えるでしょう。市民戦争での中断後、サンティアゴ・ベルナベウは、サンセバスチャンで戦いの日々を送っていましたが、一面荒廃したマドリード、自らのクラブへ戻って来ました。旧チャマルティン・スタジアムは崩壊。リーグが再開される1939年4月、サウト、キンコーセス、ボネット、レクエの4選手だけが残っていました。その他の選手は引退か国外へ亡命していました。
レアルマドリードは、消滅の一歩手前でしたが、5人の支援と執念がそれを阻止しました。レアルマドリードのために尽力したのは、ボラルケ候、ペドロ・パラヘス、アドルフォ・メレンデス、アントニオ・サンチェス・ペラルバ、そして、僅か後に最大の功労者となるサンティアゴ・ベルナベウでした。
|
|
|
|
| 満場一致でレアルマドリード会長に |
 |
1943年9月15日は、レアルマドリードにとって歴史的な日です。サンティアゴ・ベルナベウが、満場一致でレアルマドリードの会長に選ばれました。(亡くなるまで務めることとなりました)
会長としての第1回総会で、ベルナベウは、「皆さん、我々はもっと大きなグランドを必要としています。我々はそれを作ります。」と宣言。何人かの者は、気が狂ったのではと考えましたが、徐々に、会長の考えが的を得たものであると言うことが分かり、熱狂が巻き起こり、協力者に事欠かなくなりました。
そのための土地が選ばれました。サンティアゴ・ベルナベウが、オ・ドンネルの旧サッカー場の鍬入れを行い柵を立ててから30年後、1944年10月28日、大スタジアムの工事を始めるための荘厳な儀式の後、再び、象徴的な形の鍬入れを行ないました。
1947年12月14日、新チャマルティンが正式に完成。レアルマドリードは、ベレネンセスを相手に落成記念の試合を行い、3対1で勝利を挙げました。 |
チャンピオンクラブズカップ
レアルマドリードに多くの名声を与えているチャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)の誕生は、スペインが第一回委員会に加わるため、ベルナベウを最大の支援者としました。クラブによる欧州カップ戦の考えがあったレキップ紙とフランス・フットボール誌は、この考えに同意するかどうかを知るため書状を送付。
レアルマドリードは、スペインの各大会組織に提案しましたが、答えは、”ノー”でした。ベルナベウは、ライムンド・サポルタ副会長と共にパリに向かい、提案に対して、”イエス”と答えました。
レアルマドリードは、第1回大会の16のクラブの中に含まれました。当初、UEFA(欧州サッカー連盟)は、反対しましたが、その後、自らの大会としてこの欧州カップ戦を開催するようになりました。
レアルマドリードは、第1回大会から5連覇を達成、フランス人は、”レアルマドリードのカップ戦”とさえ呼びました。ベルナベウ会長時代、”イェーイェース”・レアルマドリードは6度目のタイトルを獲得。ベルナベウは、恐らく、スペイン人選手がレギュラーを占めるチームを作り上げた時、この上もない幸せを感じたことでしょう。
ルイス・レゲイロ、モロウニイ、ヘント、ディ・ステファノ、ブライトナー・・・
サンティアゴ・ベルナベウは、レアルマドリードを運営する時、第六感を持っていました。サッカーは、ベルナベウにとって秘密があるものではありませんでした。レアルマドリードが運営のお手本となっていた組織の点からも、技術的な点からも・・・レアルマドリードに世界最高の選手が加入したことがそのことを証明しています。20年代の後半、技術部門の秘書の時代から、既に、ベルナベウは、最高の選手を連れて来ていました。
ルイス・レゲイロは、レアルマドリードをサッカー界の頂点に押し上げた数多くのスター選手のリストの筆頭に置かれました。モロウニイの獲得は、ベルナベウの実践的な試みです。その後、ディ・ステファノ、プスカス、リアル、ドミンゲス、コパ、サンタマリア、ヘント、パチン、ソコ、アマンシオ、ピーリ、サンチス、サンティリャーナ、ネッツァー、ブライトナー、シュティーリケ、フアニートなど。ベルナベウの伝記の頁を一杯にしています・・・
1940年、マリア・バレンシアーノと結婚。その時以降、離れ難い伴侶となりました。また、サッカーとバスケットボールのチームの熱心なファンでもありました。マリア夫人は、ドン・サンティアゴにとってお手本のような妻でした。大仕事を企てる時は励まし、ドン・サンティアゴが望んでいるように上手く行かない時は慰めていました。レアルマドリードのすべてのファンからの人気があり、また、尊敬され、愛されていました。
|
|
|
|
| レアルマドリードへの最後の奉仕 |
 |
1977年8月23日、人生の最後を迎え始めました。ベルナベウは、サンタ・ポーラで短い休暇を過ごしていましたが、体調不良を訴えました。早い時期から世話をしていた医師のネイラは、安静にするよう勧めましたが、サンティアゴにはこの勧めは役立ちませんでした。
医師のあらゆる助言に反して、ベルナベウは、24日に飛行機の乗り、ベラスケスの引退試合に出席するため、レアルマドリードに現れました。この努力の代償を払うこととなり、数日後、サン・カミーロ病院へ入院することとなりました。42日間入院する必要がありましたが、9月8日に手術を受けました。
1977年11月4日、クラブのトロフィールームで感謝の集いを開催しました。翌日、スペインサッカー連盟の総会は、サンティアゴ・ベルナベウに連盟功労賞を授与することで一致しました。24時間後、フアン・カルロス国王が、サルスエラ宮殿の謁見の間でドン・サンティアゴ・ベルナベウを迎え入れました。レアルマドリードの会長は、自身の健康状態からと考えられたこの計らい関して国王に感謝しました。 |
レアルマドリードの会長の健康状態は、月日が流れるに従って、再び亀裂が生じていきました。しかしながら、未だ、5月8日にクラブの複数のチームの優勝祝賀会を主催。亡くなる25日前のことでした。当時のマドリード市長、ホセ・ルイス・アルバレスは、式典に参加した2千人を前にして、サンティアゴ・ベルナベウが、”イーホ・アドプティボ・デ・マドリード”(マドリード市の養子)に推選する提案を知らせました。
レアルマドリードの会長は、次のような言葉でもって、この称号の対する自らの気持ちを表しました。「考えてもいなかったことに感動している。私は、1900年からマドリードにいる。マドリードをとても愛してる。マドリードが私をとても良くバックアップしてくれたので。」1ヵ月後、国王は、スポーツ功労賞を授与しました。また、当時のスペインサッカー連盟の会長、パブロ・ポルタが、スペインサッカー連盟功労賞を授与しました。
5月29日、ドン・サンティアゴ・ベルナベウの様態が悪化しました。同日、会長は、告解を行いました。30日、終油の秘跡が行なわれました。数日間は、すべての者にとって本当に苦悶でした。6月1日、昏睡状態に陥りました。すべての者は、臨終を恐れましたが、心臓の鼓動が止む6月2日金曜日6時15分まで持ち堪えました。ドン・サンティアゴ・ベルナベウが逝去した瞬間でした。
|
|
 |
ベルナベウの人格はあまりに偉大であり、その成功は、敢えて会長選挙で戦おうと誰もしなかったほど有無を言わさないものでした。1943年にクラブの会長に就任して亡くなるまで全うしました。
83歳の誕生日を間近にしたドン・サンティアゴ・ベルナベウは、60年間をレアルマドリードに捧げました。インファンティルの選手、一軍の選手、コーチ、秘書、役員、33年6ヶ月務めた会長として・・・ |
|
|
1978年6月3日から9月2日までライムンド・サポルタ・ナミアスが会長代行を務めました。
|
|
|
|
| 基本情報 |
| 生年月日 |
1895年6月8日−1978年6月2日 |
| 出身地 |
アルマンサ/アルバセテ |
| 国籍 |
スペイン |
| 身長 |
|
| 体重 |
|
| 選手 |
| ポジション |
フォワード |
| レアルマドリード在籍 |
1911年−1928年 |
| 代表デビュー |
|
| 代表最終出場試合 |
|
| 代表出場試合数 |
0試合(0得点) |
| 会長 |
| 在任 |
1943年9月15日−1978年6月2日 |
|
|
| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 0000年−1911年 |
ヒムナスティカ・エスパニョーラ |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1911年−1912年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1912年−1913年 |
マドリードFC |
- |
- |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1913年−1914年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1914年−1915年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1915年−1916年 |
マドリードFC |
- |
- |
4 |
4 |
- |
- |
- |
| 1916年−1917年 |
マドリードFC |
- |
- |
6 |
9 |
- |
- |
- |
| 1917年−1918年 |
マドリードFC |
- |
- |
6 |
4 |
- |
- |
- |
| 1918年−1919年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1919年−1920年 |
マドリードFC/レアルマドリード |
- |
- |
2 |
0 |
- |
- |
- |
| 1920年−1921年 |
レアルマドリード |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1921年−1922年 |
レアルマドリード |
- |
- |
6 |
0 |
- |
- |
- |
| 1922年−1923年 |
レアルマドリード |
- |
- |
2 |
1 |
- |
- |
- |
| 1923年−1924年 |
レアルマドリード |
- |
- |
1 |
1 |
- |
- |
- |
| 1924年−1925年 |
レアルマドリード |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1925年−1926年 |
レアルマドリード |
- |
- |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1926年−1927年 |
レアルマドリード |
- |
- |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1927年−1928年 |
レアルマドリード |
- |
- |
0 |
0 |
- |
- |
- |
|
|
| タイトル(選手) |
| スペイン |
| コパデルレイ |
1916年−1917年 |
| 地域大会 |
1912年−1913年 1915年−1916年 1916年−1917年
1917年−1918年 1919年−1920年 1921年−1922年
1922年−1923年 1923年−1924年 1925年−1926年
1926年−1927年 |
|
|
| タイトル(会長) |
| スペイン |
| リーグ |
1953年−1954年 1954年−1955年 1956年−1957年
1957年−1958年 1960年−1961年 1961年−1962年
1962年−1963年 1963年−1964年 1964年−1965年
1966年−1967年 1967年−1968年 1968年−1969年
1971年−1972年 1974年−1975年 1975年−1976年
1977年−1978年 |
| コパデルレイ |
1945年−1946年 1946年−1947年 1961年−1962年
1969年−1970年 1973年−1974年 1974年−1975年 |
| コパエバドゥアルテ |
1947年 |
| ヨーロッパ |
| チャンピオンズリーグ |
1955年−1956年 1956年−1957年 1957年−1958年
1958年−1959年 1959年−1960年 1965年−1966年 |
| ラテンカップ |
1955年 1957年 |
| インターナショナル |
| ヨーロッパ/サウスアメリカカップ |
1960年 |
| スモールワールドカップ |
1952年 1956年 |
|
|
 |
|