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ピーリ/Jose Martinez Sanchez, "Pirri"
セウタからグラナダ、レアルマドリードへ
ホセ・マルティネス・サンチェス・”ピーリ”は、1945年3月11日にアフリカ北部のスペイン領、セウタで生まれました。

ピーリは、インペリオ・デ・リフェン、ソシエダード・デポルティーバ・セウタやアトレティコ・デ・セウタと言ったチームでサッカーを始めました。セウタのコレヒオ・サン・アグスティンで学業に勤しんでいましたが、運動神経抜群で注目されていました。(成績が悪かったわけではありません。)

校長のフアン・バウティスタ・ソト神父は、当時を振り返って、「学業は体育の授業のように顕著なものはなかったが、学位を取る時の集中力は凄かった。スペインサッカー界でスター選手の一人に仲間入りするとは思ってもなかったが、そのことをとても誇りに感じている。」とコメント。

1963年、学問を続けるためグラナダへ移りました。同市のグラナダと契約。ここでスペインサッカーで名を残すようになりました。

グラナダでの活躍(1963年−1964年)からスペインアマチュア選抜に招集、右インテリオールのポジションを占めました。当時、レアルマドリードは、世代交代の時期を迎えていました。チームは高齢化しており、可及的速やかな再構築が必要でした。しかしながら、容易なことではありませんでした。放出する中には、間違いなく歴代最高の選手、アルフレド・ディ・ステファノがいました。”ラ・サエタ”はグロッソが後を継ぎました。

また、クラブの歴史に輝かしい頁を刻んだ若手選手がチームに加わりました。バリャドリードからサンチスとモロリョン、レアルマドリードのカンテラからデ・フェリペ(前年、ラヨバリェカーノへレンタル移籍)が加入。ピーリの登録名で有名になるホセ・マルティネスは、偉大なフェレンツ・プスカスの後を継ぐと言う難しい役割を担いました。

”イェーイェース”を形成
ピーリは、”グラン・カピタン”、ヘントが牽引役となり11名のスペイン人選手で構成されたあの”イェーイェース”の一員となる栄誉を受けました。タイトルと夢を与えて一時代を築いたチームです。

レアルマドリードでの1年目、ピーリは初めてのリーグ優勝を経験。リーグでのデビュー戦は誰もが夢見るバルセロナとのクラシコでしたが、ピーリは、臆することなくプレイしました。

1964年11月8日、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで行なわれたバルセロナとのクラシコ。前節のベティス戦で退場処分となったプスカスに代わりピーリは”10番”を付けて先発出場しました。

試合はレアルマドリードが4対1で快勝。”エル・ブルーホ”・アマンシオがハットトリックが達成、セレナがダメ押しゴールを挙げました。メンバーは、ベタンコルト:ミエラ、サンタマリア、パチン:ミューラー、ソコ:セレナ、アマンシオ、グロッソ、ピーリ、ヘントでした。

以降、ピーリは、公式戦でレアルマドリードのユニフォームを着なかったことは殆どありませんでした。この1964年−1965年のシーズンは21試合に出場。(第9節の試合でデビュー、第23節のベティス戦のみ欠場)グロッソ(17得点)、プスカス(11得点)に次ぐ9得点を挙げました。

ピーリは、中盤からリベロとしてディフェンダーまでこなせるユーティリティなところからレアルマドリードのみならずスペイン代表でも活躍しました。

レアルマドリードでは、個人レベルでの数々の表彰に加えて、リーグ優勝10回(1965年、1967年、1968年、1969年、1972年、1975年、1976年、1978年、1979年、1980年)、総統杯(現コパデルレイ)優勝4回(1970年、1974年、1975年、1980年)を達成しました。

チャンピオンクラブズカップを制覇
ピーリのサッカー人生で最も重要な”道標”は、チャンピオンクラブズカップを制覇したことと言えるでしょう。

ディ・ステファノ、プスカス、ヘント、デル・ソル、サラガ、パチンやサンタマリアと言った選手が構成したチームが5連覇を達成して以来、待ちに待ったタイトルでした。

第6回大会では、外部の状況からレアルマドリードが決勝戦へ進出することを阻みました。勝てたはずでしたが・・・したがって、レアルマドリードが再びタイトルを獲得するまで5年間を要しました。

1966年、チャンピオンクラブズカップのタイトル奪取に期待が高まりました。しかしながら、予想は、タイトル奪取の夢をレアルマドリードから奪い去るものでした。と言うのも、ヨーロッパの他のチームは、大幅な戦力補強を行なっていたため。一方のレアルマドリードは、”イェーイェース”と言うニックネームを付けた若手スペイン人選手が中心のチームでした。

”イェーイェース”に関しては、チームの”守り神”の一人、ピーリが加入、最前線はヘント、ソコは大会で9試合に出場した選手でした。1966年5月11日の決勝戦、相手はパルチザン・ベオグラード、舞台はブリュッセルのヘイゼル・スタジアムでした。スペイン人イレブンは、数年前、”先人達”が行なったように卓越したプレイを展開。6度目のタイトルを獲得しました。

ピーリの現役時代で一番悲しい思い出の一つは、間違いなく、1971年のカップウイナーズカップの決勝戦でしょう。チェルシーに無情にも敗れました。しかしながら、その一方、クラブからもファンからも愛された最高の時を過ごしていたことも間違いないでしょう。アテネでの決勝戦でピーリは負傷。1971年5月19日のことでした。敗れはしたものの、ホセ・マルティネス・”ピーリ”の名はレアルマドリードの歴史にしっかりと刻まれました。

試合は、1対1の引き分けに終わりました。(ソコが90分に同点ゴールを記録)ルールに従い再試合が行われることになりました。2日後、舞台は同じアテネのカライスカキ・スタジアム。ムーニョス監督は、筋裂傷で腕に包帯を巻いていたピーリの起用を躊躇っていましたが起用を決断。

ピーリは奮闘しましたが100%の状態ではありませんでした。ユニフォームの中で腕を胸に固定していましたが、その姿は決して忘れることはできないでしょう。2対1で勝利を収めたチェルシーの選手は、試合後、「レアルマドリードは、最高のチームであることを示していた。」と栄誉を称えていました。

スペイン代表デビュー戦で初ゴール
代表に関して、ピーリは、最も多くの試合に出場した選手の一人でした。歴代の代表監督の信頼は絶大。1966年7月13日にバーミンガムで行なわれたワールドカップ・イングランド大会のアルゼンチン戦でスペイン代表でデビュー。アルゼンチンが2対1で勝利を収めましたが、スペインの得点はピーリによるものでした。

スペイン代表で41試合に出場して16得点を記録。(22勝9分10敗)リベロとしてプレイしていましたが、2試合に1得点を挙げていました。ピーリのスペイン代表での最後の試合は、1978年6月11日にブエノスアイレスで行なわれたワールドカップ・アルゼンチン大会のスウェーデン戦でした。(スペインが1対0で勝利)

感動を呼ぶ引退試合
1980年6月24日朝、ピーリは、レアルマドリード退団の記者会見を開きました。感動を呼んだ別れの挨拶の場には、ルイス・デ・カルロス会長、マヌエル・フェルナンデス・トリーゴ理事、そして、夫人で元女優のソニア・ブルーノが同席しました。

ピーリは荷造りをしてメキシコでの新たな一歩を踏み出すことを計画。2年間、プエブロでプレイ。同時に、医学の課程を修了。

1981年5月15日、マドリードの守護聖人、サンイシドロのお祭りの日、レアルマドリードとスペイン代表の伝説のキャプテンは、その栄誉を称えられました。ピーリのレアルマドリード復帰は、喝采をもって歓迎されました。

ピーリが、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムのセンターサークルから挨拶した時、再び大きな喝采が起こりました。ロッカールームの入口で目に涙を浮かべていたピーリは、「ファンが僕のことを愛してることが分かった。ソニア、ドン・サンティアゴ、チームメートのことを懐かしく思い出した。」とコメント。

スペインへ帰国した後、ピーリは、白色のユニフォームから白衣に着替えて、レアルマドリードのメディカル・サービスに加わりました。数年間、レアルマドリードの選手の治療を受け持っていました。また、選手の一人がピッチに倒れるとベンチから飛び出すのが常でした。その後、1996年から2000年まで技術部門でGMを務めました。(2000年9月、ホルヘ・バルダーノへ引き継ぎました。)


最後の本物の強化部長
ピーリは、ペレス会長の就任と同時に、半年間、総合部長になる前、3年半にわたりレアルマドリードの強化部長を務めました。レアルマドリードのOB、13年間、トップチームのチーム・ドクターを務めたピーリは、1998年、当時のサンス会長の手によって就任。ミッションは選手に関する情報を提供することでした。

就任以来、2000年にレアルマドリードを去るまで機能を果たしていました。と言うのも、チームは、チャンピオンズリーグで優勝2回(1998年と2000年)、リーグで優勝1回(1997年)、インターコンチネンタルカップで優勝1回(1998年)を達成したため。

カペッロは、ピーリと最初に仕事をした監督でした。(その後、ハインケス、ヒディンクとデル・ボスケ)ピーリは、カペッロを満足させるため世界中を駆け回りました。衝撃を与えたのはエトゥと言う無名の選手を獲得したこと。しかしながら、また、アンリ、ジダンやトレゼゲとも交渉していました。契約が後一歩のところまでいっていましたが、これらの交渉は実を結びませんでした。

トニ・グランデ、ビセンテ・デル・ボスケ、ガルシア・エルナンデスとポルトゥガルが、他の中、ピーリの仕事のチームを形成。クラブの財政事情のため手の届く範囲の選手、セードルフやイルクナーと言った選手を獲得した組織でした。ピーリが強化部長として最後に獲得した選手はマケレレでした。ペレス会長の体制下では、総合部長としてソラリを獲得しました。

最大の功労は、2000年にタイトルを再び獲得するため1998年にチャンピオンズリーグを制したチームの選手を僅かな予算で交代させたこと。アムステルダムでは、パヌッチ、ミヤトビッチやスーケルと言った選手の姿がありましたが、パリでは、エルゲラ、サルガド、マクマナマンやアネルカと言った選手がデビューしていました。

基本情報
ポジション ミッドフィールダー
出身地 セウタ
国籍 スペイン
生年月日 1945年3月11日
身長
体重
レアルマドリード在籍 1964年−1980年
1部リーグデビュー 1964年11月8日 レアルマドリード対バルセロナ
代表デビュー 1966年7月13日 アルゼンチン対スペイン
代表最終出場試合 1978年6月11日 スウェーデン対スペイン
代表出場試合数 41試合(16得点)
経歴
シーズン チーム リーグ カップ UEFA大会
出場試合 得点 出場試合 得点 大会種別 出場試合 得点
0000年−0000年 グラナダ - - -
1964年−1965年 レアルマドリード 21 9 2 1 C1 4 0
1965年−1966年 レアルマドリード 28 7 4 1 C1 9 3
1966年−1967年 レアルマドリード 27 7 4 2 C1 4 1
1967年−1968年 レアルマドリード 28 10 4 0 C1 8 3
1968年−1969年 レアルマドリード 17 3 2 0 C1 3 4
1969年−1970年 レアルマドリード 26 13 9 2 C1 3 1
1970年−1971年 レアルマドリード 29 13 2 1 C2 10 2
1971年−1972年 レアルマドリード 23 11 5 3 C3 2 0
1972年−1973年 レアルマドリード 30 8 2 1 C1 7 1
1973年−1974年 レアルマドリード 28 7 7 4 C3 2 0
1974年−1975年 レアルマドリード 20 7 6 3 C2 4 3
1975年−1976年 レアルマドリード 31 13 2 0 C1 7 3
1976年−1977年 レアルマドリード 31 11 2 2 C1 3 1
1977年−1978年 レアルマドリード 26 7 2 4 - - -
1978年−1979年 レアルマドリード 25 5 7 2 C1 4 1
1979年−1980年 レアルマドリード 27 2 4 0 C1 5 0
1980年−1982年 プエブラ(メキシコ) - - -
タイトル
スペイン
リーグ 1964年−1965年 1966年−1967年 1967年−1968年
1968年−1969年 1971年−1972年 1974年−1975年
1975年−1976年 1977年−1978年 1978年−1979年
1979年−1980年
コパデルレイ 1969年−1970年 1973年−1974年 1974年−1975年
1979年−1980年
ヨーロッパ
チャンピオンズリーグ 1965年−1966年
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