| パブロ・ガルシア/Pablo Gabriel Garcia Perez |
 |
ウルグアイ代表のミッドフィールダー(メディオセントロ)。中盤での守備のスペシャリスト。アグレッシブ、相手選手のマークに長けており、長いパスを前線に供給。
直情的な性格が出ることもあり、イエローカードが多いのも仕事振りによるものと言えます。スペイン国籍を保有。2005年−2006年のシーズン、オサスナからレアルマドリードへ移籍。2007年−2008年のシーズン、ムルシアへレンタル移籍。2008年7月10日、レアルマドリードはパブロ・ガルシアの契約を解消。 |
|
|
|
| Curiosity |
パブロ・ガルシアは、ざっくばらんに言う性格があります。2004年4月11日のベルナベウでのレアルマドリード戦の前、結果予想を尋ねられて、「俺達が3対0で勝つよ。」と即答。結果は的中、パブロ・ガルシア自ら中押しのゴールを決めました。翌年、オサスナが再びベルナベウを訪れた際、マドリードの地元メディアが結果予想を尋ねることはありませんでした。[2004年9月]
2004年12月5日のアトレティコ・マドリード戦でドブレ・アマリーリャで退場処分に。13試合で11枚のイエローカードを受けたパブロ・ガルシアは、「何を考えてるなんか分からんよ。5試合毎に出場停止になるってことは分かってるけど。警告が僕には厳しすぎるんじゃない?どうしようもないよ。時々、イングランドでプレイしようかって思ってるよ。」とコメント。[2004年12月]
|
| 1996年 |
19歳の時にワンダラーズ・モンテビデオの下部組織でプロ選手としてのキャリアをスタート。
|
| 1997年 |
ワンダラーズ・モンテビデオでプレイ。
|
| 1997年−1998年 |
活躍の舞台をヨーロッパへ移しました。アトレティコ・マドリードBへ移籍。1997年12月12日から21日までUAEで開催のコンフェデレーションズカップでビクトル・ウア監督によりダリオ・シルバ、サライエタやレコバなどと共にウルグアイ代表に招集。12月13日のUAE戦に先発出場してウルグアイ代表でデビュー。
ウルグアイはグループ首位で準決勝に進出しましたが、オーストラリアに不覚をとり0対1で敗れて、更に、3位決定戦ではグループステージで2対1で勝利を挙げているチェコに0対1で敗れました。パブロ・ガルシアは7番を付けて5試合(0得点)に出場。なお、スペインリーグでのプレイの機会はありませんでした。ペニャロール(ウルグアイ)へ4ヶ月間レンタル移籍。12試合(0得点)に出場。
|
| 1998年−1999年 |
アトレティコ・マドリードB(2部リーグ)でプレイ。背番号16番でバラハ、ルケやフォーチュン(南アフリカ)などと共にプレイ。1999年5月2日の2部リーグ第35節のコンポステーラ戦の75分にクビーリョに代わり出場、82分に自らドリブルで持ち込みシュートを放ちスペインリーグで初ゴールを記録。2部リーグで16試合に出場して1得点を記録。アトレティコ・マドリードBは2部リーグで2位に入りました。
6月29日から7月18日までパラグアイで開催のコパアメリカでビクトル・プア監督によりサライエタなどと共にウルグアイ代表に招集。ウルグアイは決勝戦でブラジルと対戦しましたが、リバウド(2得点)とロナウドにゴールを許して0対3で完敗。パブロ・ガルシアは18番を付けて3試合(0得点)に出場。
|
| 1999年−2000年 |
アトレティコ・マドリードB(2部リーグ)でプレイ。背番号7番でラウル・モリーナ、ルケやイリ・ロシツキ(トマス・ロシツキの兄)などと共にプレイ。2部リーグで22試合に出場して2得点を記録。アトレティコ・マドリードBは2部リーグで17位に終わりました。
|
| 2000年−2001年 |
ミランへ移籍。(スペインでは2部リーグでのプレイでしたがミランが注目していました。)
|
| 2001年−2002年 |
ベネチアへレンタル移籍。2002年5月31日から6月30日まで韓国・日本で開催のワールドカップでビクトル・ウア監督によりダリオ・シルバやレコバなどと共にウルグアイ代表に招集。ウルグアイはグループAで3位に終わりグループリーグで敗退。パブロ・ガルシアは5番を付けて3試合(0得点)に出場。
|
| 2002年−2003年 |
オサスナへ移籍。背番号は13番に。同じウルグアイ人のモラレスや元レアルマドリードのバルドなどと共にプレイ。2002年9月1日の1部リーグ開幕戦のビリャレアル戦の56分、ハビエル・アギーレ監督がアルフレドに代えて起用して1部リーグでデビュー。82分にリバウンドを上手くシュートして初ゴールを記録、チームは辛くも2対2で引き分けました。1部リーグで22試合(1,665分)に出場して1得点を記録。イエローカード9枚、レッドカード1枚。オサスナは1部リーグで11位に終わりました。
|
| 2003年−2004年 |
オサスナでプレイ。背番号は16番に。1部リーグで27試合(2,394分)に出場して4得点を記録。イエローカード14枚、レッドカード1枚。オサスナは1部リーグで13位に終わりました。フアン・カラスコ監督と交代したホルヘ・フォサッティ新監督がウルグアイ代表に招集。ワールドカップ南米予選のペルー戦(6月1日)とコロンビア戦(6月6日)に出場。
|
| 2004年−2005年 |
オサスナでプレイ。背番号は5番に。7月、バルセロナのセルヒオ・ガルシアとのトレード話が浮上・・・ワールドカップ南米予選のアルゼンチン戦(10月9日)とボリビア戦(10月12日)に出場。11月17日のワールドカップ南米予選のパラグアイ戦に出場。ワールドカップ南米予選のチリ戦(3月26日)とブラジル戦(3月30日)に出場。1部リーグで29試合(2,441分)に出場して2得点を記録。イエローカード18枚(退場1回)オサスナは1部リーグで15位に終わりました。
レアルマドリードへの移籍話が浮上・・・(2006年まで契約有。契約違約金1,300万ユーロ。所有権はオサスナと代理人のパコ・カサル氏が50%ずつ保有)6月7日のワールドカップ南米予選のペルー戦に出場。ペルー戦で左双子筋を痛めたものの6月11日のベティスとのコパデルレイ決勝戦に出場。オサスナは1対2で敗れました。パブロ・ガルシアは奮闘しましたが123分にホアキンに対する激しいタックルでレッドカードで退場・・・
|
| 2005年−2006年 |
2005年7月1日、レアルマドリードへの移籍が決定。(4年契約、移籍金400万ユーロ、年俸300万ユーロ)前年の2試合出場停止処分の裁定があるためコパデルレイ初戦と1部リーグ開幕戦が出場停止に・・・7月11日、メディカル・チェックと入団発表、背番号は”12番”に決定。7月14日からのワールドツアーに参加。7月16日のチバス・グアダラハラ戦でレアルマドリードでデビュー。8月3日からのイルドニング合宿に参加。
8月17日のスペインとの親善試合に出場。痛恨のオウンゴール・・・8月23日のMLS選抜とのサンティアゴ・ベルナベウ杯でサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムでデビュー。8月28日のカディスとの1部リーグ開幕戦は出場停止処分のため欠場。9月4日のワールドカップ南米予選のコロンビア戦に出場。9月10日の1部リーグ第2節のセルタ戦の79分から出場、レアルマドリードの公式戦でデビュー・・・
9月13日のチャンピオンズリーグ・グループステージ第1節のオリンピック・リヨン戦に先発出場。5年ぶりにUEFA大会でプレイ。10月8日のワールドカップ南米予選のエクアドル戦に出場。10月12日のワールドカップ南米予選のアルゼンチン戦に出場。11月12日のオーストラリアとのワールドカップ・プレイオフ第1戦に出場。11月16日の第2戦に出場。PK戦の末に敗れて本大会の出場権を獲得できませんでした。
2006年1月、練習中に左足前直筋を負傷して戦線離脱・・・2月4日の1部リーグ第22節のエスパニョール戦から復帰。2月11日の1部リーグ第23節のアスレチック戦で左膝側副靱帯の部分裂傷。5−6週間の戦線離脱・・・4月1日の1部リーグ第31節のバルセロナ戦から復帰。リーグで22試合(0得点)に出場。警告は10回(前年は17回)、退場は0回(前年は1回)。5月21日の北アイルランドとの親善試合に出場。5月24日のルーマニアとの親善試合に出場。
|
| 2006年−2007年 |
2006年7月12日、バルデベバスでプレシーズンを開始。7月17日からのイルドニング合宿に参加。8月16日のエジプトとの親善試合でウルグアイ代表に招集。8月7日からの米国遠征に参加。8月29日、セルタへレンタル移籍が決定。(年俸は折半、セルタは買取オプションを保有。)背番号は16番。9月10日の1部リーグ第2節のヒムナスティック戦に出場。セルタの公式戦でデビュー・・・2007年6月26日から7月15日まで開催のコパアメリカ・ベネズエラ大会に招集。
|
| 2007年−2008年 |
2007年7月17日、レアルマドリードはムルシアへのレンタル移籍(1年間)を発表。ムルシアは19位で2部リーグに降格。パブロ・ガルシアは21試合に出場。2008年7月10日、レアルマドリードはパブロ・ガルシアとの契約解消を発表。
|
|