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ミチェル/Jose Miguel Gonzalez Martin del Campo
サッカー選手の家系
ホセ・ミゲル・ゴンサレス・マルティン・デル・カンポ、”ミチェル”は、1963年3月23日にマドリードで生まれました。

母親のぺピータ・マルティン・デル・カンポ、父親のミゲル・ゴンサレスの間、マリア・ホセ、マリア・ドロレスの後の三男でした。父親は、家族がサッカーを行なう伝統を続けるよう男の子を熱望しました。そして、ミチェルが生まれて、漸く、願いを果たすことになりました・・・

父親のミゲルは、コルドバからの極めて重要なオファーを得ていましたが、27歳と言うサッカー選手にとって一番の年齢でサッカーを続けることを断念せざるを得ませんでした。コルドバへ加入する数日前、グランドから身を引くこととなる自動車事故に遭いました。

サッカーへの愛着が、指導者としての道へ進むことを決めました。スペイン中央部の数多くのチームを指導しました。ミチェル少年は、父親の熱心なファンでしたが、幼少の頃からサッカーを学びました。

父親が指導するチームのユニフォームを着ていつもグランドへ行ってました。ミチェルは、多くのプロ選手のアドバイス、秘密の話、逸話、成功談や失敗談から直接的に学びました。こう言った教育は、生まれつきのレベルの高さと相まって、同年代の選手の中で直ぐに目立つ存在になりました。ミチェルは、通っていた学校のチームでスター選手となり、10歳の時、”本当の意味での”最初のチーム、ラヨ・デ・ロス・アンヘレスへ加入。住んでいたマドリードの下町、シウダード・デ・ロス・アンヘレスにあるチームでした。

12歳の時、初めての重要なオファーを受けました。一つはラヨ・バリェカーノから、もう一つはアトレティコ・マドリードからのものでした。父親のミゲルは、我が家に”至宝の選手”を見出したのはこの時でした。父親と息子は、この件を話し合い、両方のオファーを断りました。父親は、アトレティコ・マドリードのファンで、更に、そのクラブでプレイしていましたが・・・

しかしながら、マドリードのチームがカンテラを育成する形を評価、下部カテゴリーのコーディネーター、バシリオ・デル・ポソ(アランフェスでミチェルの父親の監督を務めました。)がいたレアルマドリードに申し込むことを決断。レアルマドリードがミチェルをテストした時、この少年のレベルを前にして慌てふためき驚きました・・・

13歳でレアルマドリード入り
ミチェルは、1976年10月1日、レアルマドリードへ加入しました。最初のチームは、アルホナ監督のインファンティルBでした。ここで、左ウイングとしてプレイを始めました。ラファ・ロペス監督は、「そのポジションのために生まれて来たようだ。左ウイングとして10番を付けてプレイしていた。両方の足を上手く使って、殆ど修正する必要がなかった・・・」と記していました。

ミチェルは、ペペ・メルと出会い、オフェンス陣を形成しました。キャプテンの中盤でのアシストを得てゴールを量産・・・このチームでは、カルロス・ルエンゴもプレイしていましたが、いつも、妹のメルセディタスを連れて来ていました。ミチェルは、数年後、夫人となる女性と出会いました。

成功に満ちた1年の後、インファンティルAへステップアップ。年齢にも拘らず、直ぐに、名声が国内に広がりました。バルセロナでは、フランス国籍であると思われていました・・・(ミチェルと呼ばれたため、イダルゴやプラティニと言った選手と混同されていました・・・)僅か2年で、ミチェルは、フベニールBへステップアップ。

この頃、既に、弟のハビエルと共にシウダード・デポルティーバへ通っていました。ハビエルは、ミチェルと同じようなレベルを持っていましたが、15歳の時、極めて重い怪我でキャリアを縮めることになりました。

1979年、レアルマドリードの下部組織で最も重要なチーム、フベニールAへステップアップ。故ラモン・モレノ・グロッソが監督を務めたチームで、フベニール選抜、U18スペイン代表に招集されました。モナコでのアルバート王子杯で優勝、最優秀選手賞を獲得。この頃、ミチェルは、既に、体格と共に卓越したテクニックで有名な選手になっていました。1981年、フベニールでの最後の試合でスペイン選手権の決勝を制しました。歴史的な素晴らしいゴールを挙げて、サリナス兄弟のアスレチックを下して二連覇を達成。

1981年−1982年のシーズン、史上最高のレアルマドリードの下部組織のチームへステップアップ。アマンシオ・アマーロ監督率いるカスティーリャ(現レアルマドリードB)でした。レベルが高く才能豊富な選手による素晴らしい世代、”キンタ・デル・ブイートレ”に加わりました。クインテッドに名前を付けた選手、ブトラゲーニョと共に、現代サッカーで最もスペクタクルな攻撃陣を形成しました。

この世代の大部分の選手が、トップチーム入りすると言う夢を実現しました。マルティン・バスケス、パルデサ、サンチス、チェンド、オチョトレナ、サルゲロ、ベルナルドやブトラゲーニョがステップアップする一方、ミチェルは、カスティーリャでプレイを続けました。1982年4月11日、カステリョンで大々的にデビュー!2対1で勝利、初ゴールを挙げました。

1983年−1984年のシーズン、間違いなくキャリアで最大の危機に瀕していました。チームで3年目、元チームメートはトップチームで活躍中。日々を過ごして来たクラブに興味を失ったと考えました。目標はトップチームにありましたが、史上初の2部リーグ優勝を果たすまでチームで奮闘。この成功の後、マラガから破格のオファーを受けましたが、もちろん、これを拒否。トップチームがミチェルを呼び寄せました。

”マドリディスモ”の象徴
ミチェルは、1984年夏、グランドで最も幸せな選手であったことは間違いないでしょう・・・遂に、フアニート、サンティリャーナ、ガリェゴと言った称賛するベテラン選手や他のチームメートの間にポジションを見出しました。

ミチェルは、7番を付けて、ベルナベウでのバルセロナ戦でレアルマドリードでのデビューを果たしました。付けるのを嫌がった番号でしたが、そのユニフォームを大事に取っておきました。ゴールキーパーのポジションで1度プレイしたことを含めて、2番と9番を除き、1番から11番のすべての番号を付けました。ミチェルのお気に入りの番号は8番。(レアルマドリードのOBチームでプレイする際には8番を使用しています・・・)

1年目のシーズン、ほぼすべて左ウイングとして26試合に出場、2得点を挙げました。国際舞台での勝利は、現在ではサンティアゴ・ベルナベウでの逆転劇で伝説となっているUEFAカップでした。ミチェルは、2試合を懐かしく思い出してます。決勝ゴールを挙げたインテル戦と3対0で勝利を挙げたハンガリーのビデオトンとの決勝戦です。

トップチームでのミチェルの伝説は、すべてのレアルマドリード・ファンに広く知れ渡っています。ゴルディーリョ、ブーヨ、ウーゴ、マセダの加入、ガリェゴ、サンティリャーナ、フアニートと言ったベテラン陣、初期の”キンタ・デル・ブイートレ”と共に、100年の歴史で最も完璧なチャンピオン・チームを形成。

リーグ5連覇を達成しましたが、チャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)では、国際的な”承認”が得られず、一度もタイトルを手にすることがありませんでした。特に、アイントホーヘンでの悲しみに包まれた夜(「私のサッカー選手としてのキャリアで最も悲しい日となった。勝って、決勝へ進むのに相応しい内容だった。間違いなく勝っていた・・・」)をミチェルは何度も示しました。

しかしながら、喜びが悲しみを優りました・・・ビッグ・タイトルを14個獲得、レアルマドリードのユニフォームを着て素晴らしい多くのシーズンを送りました。また、テネリフェに敗れてリーグ優勝を逸したり、先発から外れるなど不快なこともありました・・・グランドからの引退と言う論争が起こりました。ミチェルは、サッカー選手と言うよりも個人的なことで批判を浴びました。しかしながら、ミチェルが、内気、謙虚、飾り気がなく、自主性のある人物であると言うことは殆どの者は知りませんでした・・・

1994年12月13日、大怪我を負って引退が囁かれました。アノエタ・スタジアムが大きな災難の舞台でした。レアルソシエダード対レアルマドリードの試合の13分、旋回した際、ミチェルの左の靴が芝に引っかかりました。靱帯を損傷、6ヶ月の戦線離脱・・・1995年7月24日にチームに復帰、1995年−1996年のシーズンに向けてプレシーズンを過ごしましたが、当初は先発出場することはありませんでした。

バルダーノ監督により、ミチェルは、レアルマドリードのユニフォームを着た最後のシーズン、1年間を通して素晴らしい働きを見せました。ラモン・メンドーサ会長の辞任を前にして、新会長の決定を妨げないために提示された契約更改を拒否。その活躍からスペインやイタリアのビッグ・クラブのオファーが絶えることはありませんでしたが、ミチェルは、選手のユニフォームをもう一度着るのであれば、最も愛するレアルマドリードから遥か遠くに離れたチームと決めていました・・・

アメリカへの冒険
ミチェルは、複数のチームからのオファーを拒否しました。正確には、アトレティコ・マドリードとチリのウニベルシダード・カトリカが、スペインサッカー界で最高のアシスト王の契約に大きく動きました。

常に、多面的にクラブに貢献していたレアルマドリードの選手としての気持ちを秘めて、アメリカへ向かうこととしました。正確には、メキシコへ向かいました。そこでは、大親友のエミリオ・ブトラゲーニョが大きな称賛を得ていました。

セラヤの町に、”キンタ・デル・ブイートレ”の最もカリスマ性を帯びた二人の選手がそれぞれのサッカーの一番の部分を示すため存在。

メキシコリーグのファンは、右サイドからのテクニックを持って駆け上がったり、ゴールライン付近からの信じられないクロスを上げたり、とても美しいゴールを挙げたりする光景を目の当たりにしました。1997年4月26日、ミチェルがセラヤでのラストゲームに出場、同時に、ウーゴ・サンチェスがプーマスへ移りました。両選手は、ミゲル・アレマン・バルデス・デ・セラヤ・スタジアムでサッカー選手にピリオドを打ちました。


2003年11月11日、バリャドリードのクラブ創立75周年記念に行なわれたOBチームの親善試合に出場。2005年−2006年のシーズン、2部リーグBのラヨバリェカーノの監督に就任。2006年5月9日のアルフレド・ディ・ステファノ・スタジアムの完成を記念したスペイン代表OBとの試合に出場。ラヨバリェカーノは2部リーグBグループ1で5位に終わり2部リーグ昇格プレイオフ進出を惜しくも逃しました。ラヨバリェカーノの監督を辞任。

2006年7月5日、RMカスティーリャの監督兼シウダード・レアルマドリード責任者に就任。4年契約。

【ミチェル監督のコーチ陣】
フアン・カルロス・マンディア第2コーチ、フアン・カルロス・エルナンデス・フィジカルコーチ、ペドロ・ルイス・ハロGKコーチ

9月16日にアルフレド・ディ・ステファノ・スタジアムで行なわれたアルバセテ戦でBBVAリーグ初勝利。19位で終了、2部リーグBに降格。2007年7月、カンテラの責任者に専念するためマンディア第2コーチにチームの指揮を引き継ぎました。

基本情報
生年月日 1963年3月23日
出身地 マドリード
国籍 スペイン
身長 182センチ
体重 77キロ
選手
ポジション フォワード
レアルマドリード在籍 1976年10月1日(1981年)−1996年6月30日
1部リーグデビュー 1982年4月11日 カステリョン対レアルマドリード
代表デビュー 1985年11月20日 スペイン対オーストリア
代表最終出場試合 1992年11月18日 スペイン対アイルランド
代表出場試合数 66試合(21得点)
監督
契約
1部リーグデビュー
選手経歴
シーズン チーム リーグ カップ UEFA大会
出場試合 得点 出場試合 得点 大会種別 出場試合 得点
1976年−1981年 レアルマドリード下部組織 - - - - -
1981年−1982年 カスティーリャ/2部リーグ - - -
1981年−1982年 レアルマドリード 1 1 0 0 C3 0 0
1982年−1983年 カスティーリャ/2部リーグ - - -
1983年−1984年 カスティーリャ/2部リーグ - - -
1984年−1985年 レアルマドリード 26 2 2 0 C3 9 3
1985年−1986年 レアルマドリード 31 7 5 0 C3 12 2
1986年−1987年 レアルマドリード 44 5 6 1 C1 8 0
1987年−1988年 レアルマドリード 35 14 7 1 C1 8 4
1988年−1989年 レアルマドリード 36 13 8 0 C1 5 0
1989年−1990年 レアルマドリード 37 8 6 0 C1 3 2
1990年−1991年 レアルマドリード 36 8 2 0 C1 6 1
1991年−1992年 レアルマドリード 38 11 6 2 C3 10 2
1992年−1993年 レアルマドリード 37 9 6 1 C3 8 3
1993年−1994年 レアルマドリード 37 11 4 1 C2 6 2
1994年−1995年 レアルマドリード 13 2 0 0 C3 5 0
1995年−1996年 レアルマドリード 33 6 1 1 C1 8 1
1996年−1997年 アトレティコ・セラヤ(メキシコ) - - -
タイトル(選手)
スペイン
2部リーグ 1983年−1984年
リーグ 1985年−1986年 1986年−1987年 1987年−1988年
1988年−1989年 1989年−1990年 1994年−1995年
コパデルレイ 1988年−1989年 1992年−1993年
スペルコパ 1988年 1990年 1993年
コパデラリガ 1984年−1985年
ヨーロッパ
UEFAカップ 1984年−1985年 1985年−1986年
ゴールデンブーツ賞 1989年−1990年
監督経歴
シーズン チーム リーグ
試合 引分
2005年−2006年 ラヨバリェカーノ/2部リーグB 38 16 14 8
2006年−2007年 RMカスティーリャ/BBVAリーグ 42 13 10 19
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