| メンドーサ/Ramon Mendoza Fontenla |
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弁護士、実業家。ラモン・メンドーサの評価は難しいものがあります。会長在任中、クラブは大成功を収めて、また、”キンタ・デル・ブイートレ”などレアルマドリードを象徴する選手を見ることができました。一方、クラブの負債は、将来的に極めて危険な状態にするレベルまで達していました。
メンドーサは、ベルナベウ会長時代にレアルマドリードの役員を務めていましたが、1978年2月1日、辞任を発表。このことはメディアを通して知ったベルナベウ会長には良く思われませんでした。と言うのも、メンドーサはモスクワにいたため。
ベルナベウ会長は、メンドーサが、「レアルマドリードは、8人の世襲財産ではなく6万人のものだ。”王様”の財産ではない。」と断言したことに激怒。
ベルナベウ会長は、「誰が”王様”だと私に向かって言ってるのだ。そんな者がいるとしたら、私のソシオの受け取り分を払ってくれ。1910年からの払い込みがあるぞ。」と答えました。 |
その後、メンドーサは、ルイス・デ・カルロス会長時代、クラブの副会長を務めましたが、1979年1月12日、書面を通して辞任を表明。1978年夏以降、いくつかの醜行を犯していましたが、KGBとの関係をカンビオ16が公表したのが決定的でした。デ・カルロス会長は、「この件で、”事件性”は何も見られない。雑誌で公になったことだ。意見は一致したが影響はない。」とコメント。
1985年5月24日、会長選挙での対立候補が降りたり、支持に回ったりした後、メンドーサは、レアルマドリードの会長に就任しました。会長時代、”キンタ・デル・ブイートレ”(ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、サンチス、パルデサ)が原動力となり、リーグ優勝6回、コパデルレイ優勝2回、UEFAカップ優勝1回を達成。リーグ5連覇を達成して、ベルナベウに並ぶ唯一の会長と言う栄誉を得ました。
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1991年1月25日、メンドーサ会長とマドリード市は、5千万ペセタを拠出してトロフィールームを新設することで合意に達しました。1991年4月14日、会長選挙でアルフォンソ・ウッシア氏を破り、会長に再選されました。チームの低迷が、レアルマドリードの会長選挙を早める原因となりました。しかしながら、メンドーサ会長は、1年の任期が残っていましたが、緊迫した状況を落ち着かせることのできるソシオの支援だけを考えていました。
対立候補は、新聞記者で作家のアルフォンソ・ウッシア氏でした。レアルマドリードのソシオは、メンドーサ会長の続行を決定。26,283票のうち、メンドーサ会長は、15,005票を獲得、一方、ウッシア氏は、10,501票を獲得。白票が579票、無効票が198票ありました。この結果、メンドーサ会長は、4年間、会長職を続投。
1994年1月14日、メンドーサ会長は、記者会見を開き、「シーズン終了時、会長選挙の日程を決めることになるだろう。辞任は考えてない。と言うのも、私は、タオルを投げるような卑怯者ではないので。」と明かしました。役員会内に問題があることを否定。
1994年1月22日、役員会の財務担当のマウリシオ・トレダーノ・マルケスは、レアルマドリードが、73億7,500万ペセタの負債を抱えていることを公式に認めました。負債の大半は、スタジアムの改装(35億2,500万ペセタ)によるもの。
1994年5月7日、2年を超える歳月の末、総工費50億ペセタを要したサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムの改装工事が終了。レアルマドリードの象徴的なスタジアムは、ヨーロッパで最も近代的なスタジアムへと変貌を遂げました。
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1995年2月19日、3期目を目指すメンドーサ会長は、僅か698票差でフロレンティーノ・ペレス氏を破り会長に再選されました。54,083人のソシオのうち33,682人が投票。メンドーサ会長は、15,203票を獲得、一方、ペレス氏は、14,505票、ゴメス・ピンタード氏は、4,154票を獲得。選挙で鍵を握った要因の一つは不在者投票でした。メンドーサ会長は、5,375票を獲得、一方、ペレス氏は、3,985票を獲得、ゴメス・ピンタード氏は、694票を獲得。集計の末、メンドーサ会長は、2月20日午前5時15分、会長に指名されました。
1995年3月28日、ベンフィカのマヌエル・アルマシウ会長、ユベントスのロベルト・ベッテーガ代表、ミランアドリアーノ・ガリアーニ代表と共に、後のG−14となるヨーロッパ・チャンピオン・クラブ連合を設立しました。
1995年11月20日、ラモン・メンドーサは、会長職を辞しました。記者会見で、メンドーサは、10年半に及んだレアルマドリードの最高責任者としての自らの歩み、上質で鋭い皮肉を滲ませた9枚の手書きの原稿を読み上げました。辞任の要因は、後継者となるサンスやビリャル・ミルとの絶え間ない摩擦でした。
ラモン・メンドーサ元会長は、74歳の誕生日を間近にした2001年4月4日、娘や懐かしい友人と休暇で過ごしていたナッソーで心臓発作により亡くなりました。
メンドーサ元会長は、観客席を増やすためにサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムを改装しました。恐らく、元会長の最大のフラストレーションは、常に門戸が開かれていたチャンピオンクラブズカップを制することができなかったことでしょう。
ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、サンチス、パルデサが形成した”キンタ・デル・ブイートレ”の名付け親は、レアルマドリードで得点王に4回輝くこととなるウーゴ・サンチェス、テンディーリョ、パコ・リョレンテ、ブーヨ、チェンド、ガリェゴ、マセダ、ゴルディーリョ、シュスター、プロシネツキ、イエロ、ハジと言った価値ある選手を獲得しました。
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ホルヘ・バルダーノを監督に起用
ラモン・メンドーサ時代の最後は、ホルヘ・バルダーノが監督としてレアルマドリードへ復帰するのに一役買いました。バルダーノ監督は、レドンドやラウドルップと言った天才的な選手、イエロ、サモラーノ、アマビスカ、ブーヨ、ミチェルやブトラゲーニョの支援、ラウルと言う”ニーニョ”の感動的な登場によって、1994年−1995年のシーズン、リーグを制しました。
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