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マテオス/Enrique Mateos Mancebo
マドリードの学校から
エンリケ・マテオス・マンセボは、1934年6月15日にマドリードで生まれました。貧弱ではないもののあの時代の典型的なサッカー選手とはほど遠い少年でした。そのため、後にサッカー界で最もエレガント(”フィフィリチェ”が愛称)な選手の一人になると想像する者は誰もいませんでした。マテオスが初めてサッカーに触れたのは、自分で作ったぼろ布のボールでした。

サレシアノス・デ・アトチャで学業に勤しんでいましたが、そこで、初めて本格的にチームに入りました。しかしながら、痩せていることから控えでベンチを暖めてばかりでした。マテオスよりも体力が勝る学校の仲間とのハンディキャップを克服して行きました。マテオスは、歳を重ねていたので、体力が欠けてるところは抜け目なさでカバーするに違いないと考えました。エンリケ・マテオスは、楽観主義を身に着けて、その後、スタジアムで人気を博すようになりました。

15歳の時、初めて連盟加入チーム、コロニア・サン・フェルミンでプレイ。1年後、ベティカー・ナバーロのフベニールへステップアップ。マテオスの資質がサッカー界に広がって行くにはこの”エレベーター”となるチームで1年間で十分でした。
プルス・ウルトラのフベニールが獲得に興味を示したため。当時、3部リーグに所属していましたが、エンリケ・マテオスのゴールのお陰で2部リーグへ昇格しました。

エンリケ・マテオスが名声を博す過程は、最もスペクタクルなものでスペインサッカー界での逸話となっています。時は遡り1953年、スペイン代表は、ワールドカップ・スイス大会の準備を行っていました。今は無き”メトロポリターノ”で、スパーリングとなったスペイン代表対プルス・ウルトラの試合が行なわれました。クバラ、バソラ、リャマレッツ、ガインサ、ディ・ステファノを擁するスペイン代表は、メトロポリターノ・スタジアムの観客席に大観衆を集めました。試合終了時、マテオスの名前の大合唱となりました。あまりに熱狂的であったため、メディア、はこぞってスペースを割きました。レアルマドリードは、栄光の日々をもたらすチームを形成していましたが、翌朝、マテオスと契約を交わしました。しかしながら、チームに定着するには更に数ヶ月を要しましたが。

レアルマドリードでのデビュー
マテオスは、レアルマドリードのジャンパーを着る時を夢見ていました。そして、1953年−1954年のリーグ終盤、残り4試合となりその時がやって来ました。チャマルティンのスポルティング・ヒホン戦に出場。マテオスは、11番を付けでデビュー、アティエンサ、オルセン、ディ・ステファノ、ホセイートとマテオスがフォワードを形成。結果は、4対0でレアルマドリードの勝利、マテオスは、綺麗なゴールを挙げてデビュー戦を飾りました。

マテオスのプレイは、翌シーズン、ポジションを確定するように思えましたが、リーグ第2節、アトチャでの怪我が、残りシーズンを棒に振る結果をもたらしました。第1回チャンピオンクラブズカップの出場も阻まれました。マテオスにとっては、最初で最後の大怪我でした。
怪我が完治して、マテオスは、第2回チャンピオンクラブズカップに出場。6試合に出場して3得点を挙げました。チーム内の競争は激しいものでした。と言うのも、フォワードには、コパ、ディ・ステファノ、ホセイート、ヘント、マルサル、リアル、そしてマテオス自身がいたため。

マテオスは、優勝回数で見ると他を寄せ付けないものがあります。レアルマドリードが最高の時代、最高の選手と共にプレイしました。レアルマドリードでの長くスペクタクルな道程の中、マテオスは、レアルマドリード史上最高の選手へと変貌を遂げました。ディ・ステファノ、プスカス、ヘント、リアル、コパ、サンタマリア、マルキートス、パチン、デル・ソルなどと共にチームを形成、最良の身のこなし、ゴールに向かうビジョンが優れていました。”アチャ・ブラバ”(猛々しい斧)で知られたアルゼンチン代表でインデペンディエンテのディフェンダー、ナバーロは、嘗てマテオスに付いて語っていました。「ディ・ステファノと双璧をなした人物だった。ブラジルチームの数ある成功の基礎にあるサントスのペレとコウチーニョを上回ってさえいた。」

1961年−1962年のシーズン当初、ミゲル・ムーニョスがレアルマドリードの監督に就任、チームの再構築を図りました。27歳のマテオスは、直接的な影響を受けてレアルマドリードを退団することとなりました。

サッカー界で流浪の旅へ
マテオスは、3年契約でセビリアと契約を交わしました。セビリアで、マテオスは、コパの決勝戦へ進みましたが、奇しくも、レアルマドリードの前に倒れました。契約が満了となり、ウエルバへ加入。このシーズン、降格の危機にあったベティスから声が掛かりました。ベティスからの要請の応えて、マテオスの加入は、ベティスを救うための決定的な結果をもたらしました。危険に陥った4試合で3得点を挙げて1部リーグ残留に貢献しました。マテオスは、自らのキャリアで成功を収めましたが、ベティスには残らずにヒムナスティカ・トレラベガと契約を交わしました。

このサンタンデールのチームで1年を過ごして、エンリケ・マテオスは冒険を企ていました。北部グループのチャンピオン、クリーブランド・ストークスに加入。北米で最も有名なサッカー選手となりました。マテオスは、既に、キャリアの絶頂期に達していましたが、環境を変える決断を下しました。ヨハネスブルグ(南アフリカ)のイースト・ロンドンと3ヶ月の契約を交わしました。南アフリカ人幹部の希望が大きく、給料を倍増して契約を延長しようとしましたが、マテオスは、世界中を飛び回るのに疲れて、この申し出を断り、マドリードに戻って来ました。
基本情報
生年月日 1934年6月15日−2001年7月6日
出身地 マドリード
国籍 スペイン
身長
体重
選手
ポジション フォワード
レアルマドリード在籍 1953年−1961年
1部リーグデビュー 1954年4月4日 レアルマドリード対スポルティング・ヒホン
代表デビュー 1957年3月31日 ベルギー対スペイン
代表最終出場試合 1961年6月11日 スペイン対アルゼンチン
代表出場試合数 8試合(3得点)
監督
契約
1部リーグデビュー 1977年9月4日 カディス対ラヨバリェカーノ
選手経歴
シーズン チーム リーグ カップ UEFA大会
出場試合 得点 出場試合 得点 大会種別 出場試合 得点
0000年−0000年 プルス・ウルトラ/? - - -
1953年−1954年 レアルマドリード 4 1 4 4 - - -
1954年−1955年 レアルマドリード 2 1 0 0 - - -
1955年−1956年 レアルマドリード 5 1 0 0 C1 0 0
1956年−1957年 レアルマドリード 21 14 3 0 C1 6 3
1957年−1958年 レアルマドリード 8 3 7 4 C1 1 0
1958年−1959年 レアルマドリード 3 3 3 2 C1 5 2
1959年−1960年 レアルマドリード 7 4 2 0 C1 3 3
1960年−1961年 レアルマドリード 2 0 7 4 C1 1 1
1961年−1962年 セビリア 27 14 - - -
1962年−1963年 セビリア 20 1 - - -
1963年−1964年 セビリア 8 3 - - -
1964年−1965年 レクレアティーボ/2部リーグ - - -
1964年−1965年 ベティス 6 2 - - -
1965年−1966年 ベティス 10 1 - - -
1965年−1966年 ヒムナスティカ・トレラベガ/3部リーグ - - -
1966年−1967年 クリーブランド・ストークス(米国) - - -
1967年−1968年 イースト・ロンドン・セルティック(南アフリカ) - - -
タイトル(選手)
スペイン
リーグ 1953年−1954年 1954年−1955年 1956年−1957年
1957年−1958年 1960年−1961年
ヨーロッパ
チャンピオンズリーグ 1955年−1956年 1956年−1957年 1957年−1958年
1958年−1959年 1959年−1960年
ラテンカップ 1955年 1957年
インターナショナル
ヨーロッパ/サウスアメリカカップ 1960年
スモールワールドカップ 1956年
監督経歴
シーズン チーム リーグ
試合 引分
0000年−0000年 フエンカラル/?
0000年−0000年 ペガソ/?
1977年−1978年 カディス 8 2 1 5
1978年−1979年 デポルティーボ/2部リーグ
0000年−0000年 オリウエラ/?
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