|
|
| レアルマドリード歴代選手情報 |
|
|
|
|
| マチンバレナ/Alberto Machimbarrena Aguirrebengoa |
マチンバレナは、サンセバスチャン(ギプスコア)に生まれました。早くからその才能を発揮したマチンバレナは、アウレラFCでキーパーとしてプレイした後、10歳でサンセバスチャンのインファンティルのチーム、エアソACへ加入。フォワードとして活躍。4年連続でギプスコアのインファンティルのチャンピオンになりました。(1908年から1911年までアラングレン兄弟、フアントレーナやカステルと共にプレイ。)
1913年のコパデルレイは1910年と同様にスペインサッカー連盟とスペインサッカークラブ連合による分裂開催になりました。レアルソシエダードはスペインサッカークラブ連合の大会に参加。3月23日、マチンバレナは、バルセロナとのコパデルレイ決勝戦に出場。レアルソシエダードは1対2で逆転負けを喫してタイトルを逸しました。(スペインサッカー連盟主催の大会はラシン・イルンが優勝。)
マチンバレナは、レアルソシエダードとマドリードFCによって北部地方サッカー連盟と中央サッカー連盟で選手登録がなされました。(1914年にスペインサッカー界で有効な規則は、一方のクラブが大会に参加できない場合、他の地域の他のクラブで大会の試合に出場することが可能。)レアルソシエダードがコパデルレイに参加しない場合、マチンバレナはマドリードFCの選手としてプレイしました。
アスレチック・ビルバオが抗議したため大論争に発展。1915年1月17日、スペインサッカー連盟は、”マチンバレナ問題”に決着。最終的に、連盟が規約を変更。このシーズン以降、すべての選手は、1シーズン1チームだけでプレイが可能になり、マチンバレナはマドリードFCの選手として見なされるようになりました。
1916年−1917年のシーズン、マドリードFCのマチンバレナは地域大会で3試合に出場して2得点を記録。マドリードFCは大会2連覇、コパデルレイの出場権を獲得。1917年5月15日、マチンバレナは、アレーナス・デ・ゲチョとのコパデルレイ決勝戦に出場。マドリードFCは2対1で勝利、9年ぶりに大会を制しました。
|
|
|
 |
アラングレンとマチンバレナの銅像
フェルナンド・ロペス・ケサダは、ソテーロ・アラングレンとアルベルト・マチンバレナのため記念碑を制作するため募金を集めました。
多くの賛同を得られたため、15,588.80ペセタも集まりました。この記念碑は、スタジアムのオフィスに上がる階段に設置されました。
(現在、ロッカールームからピッチへ通じる廊下に設置。グランドに出る前、試合で幸運を得るため、それぞれの頭と膝を撫でる必要があります・・・) |
|
|
|
|
| 基本情報 |
| ポジション |
ミッドフィールダー |
| 出身地 |
サンセバスチャン/ギプスコア |
| 国籍 |
スペイン |
| 生年月日 |
0000年00月00日−0000年00月00日 |
| 身長 |
|
| 体重 |
|
| レアルマドリード在籍 |
1913年−1918年 |
| 代表デビュー |
|
| 代表最終出場試合 |
|
| 代表出場試合数 |
0試合(0得点) |
|
|
| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 0000年−0000年 |
アウレラFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 0000年−0000年 |
エアソAC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1910年−1922年 |
レアルソシエダード |
- |
- |
|
|
- |
- |
- |
| 1913年−1914年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1914年−1915年 |
マドリードFC |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
| 1915年−1916年 |
マドリードFC |
- |
- |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1916年−1917年 |
マドリードFC |
- |
- |
3 |
0 |
- |
- |
- |
| 1917年−1918年 |
マドリードFC |
- |
- |
5 |
0 |
- |
- |
- |
|
|
| タイトル |
| スペイン |
| コパデルレイ |
1916年−1917年 |
| 地域大会 |
1915年−1916年 1916年−1917年 1917年−1918年 |
|
|
 |
|