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| レアルマドリード歴代選手情報 |
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| グロッソ/Ramon Moreno Grosso |
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ラモン・モレーノ・グロッソは、1943年12月8日にマドリードで生まれました。15歳でレアルマドリードへ加入。(フベニール時代、ゴールキーパーとしてプレイしていたフリオ・イグレシアスと同じチームでプレイ)
レアルマドリードの下部組織で成長してアトレティコ・マドリードへレンタル移籍。12試合で3得点を挙げてチームの残留に貢献。レアルマドリードに復帰、、”アルフレド・ディ・ステファノの後継者”としてのグロッソの伝説が始まりました。
トップチームでの1年目、1964年−1965年のシーズン、28試合に出場して17得点を記録。チームの得点王に輝きました。チームはリーグ優勝を達成。1965年−1966年のシーズン、”イェーイェース”でチャンピオンクラブズカップを制覇。 |
1966年−1967年のシーズン、自身2度目のリーグ優勝を達成。11得点のヘントに次ぐ10得点を記録。(最初の2年間のみセンターフォワードでプレイ。このシーズン、チーム内に大きな変革があり中盤のトリオを形成。右サイドがピーリ、中央がベラスケス、左サイドがグロッソ。)1967年3月1日にイスタンブールで行なわれた欧州選手権予選のトルコ戦でスペイン代表でデビュー。(通算14試合に出場して1得点を記録)
グロッソのキャリアは、リーグ優勝7回やチャンピオンクラブズカップ優勝など栄光に満ちていました。しかしながら、残念でならないこともありました。1番目は、1971年5月21日、アテネのカライスカキ・スタジアムでの試合。チェルシーとのカップウイナーズカップの再試合で1対2で敗れたことでした。(当時の評論家は、後半、疲れを見せたグロッソが敗因の一つだったと断言。レアルマドリードはこの日は本調子ではなく、チェルシーはピーター・オスグッドと言ったフォワードがいて激しい試合に慣れていたため。)
2番目は、1974年2月17日、ベルナベウでクライフがいたバルセロナに0対5と言う大敗を喫したこと。したがって、レアルマドリードは、総統杯(現コパデルレイ)決勝戦でリベンジ。グロッソの活躍でバルセロナを4対0で下して大会を制覇。1974年6月29日のことでした。バルセロナは、大会が禁止したため、外国人選手を戦力とすることができませんでしたが、リーグでは圧倒的な強さで大会制覇が確実視されていました。グロッソは、ソコと交代してキャプテン・マークを譲りましたが、フランコ総統から優勝杯を受け取りました。
グロッソが最も輝いていた試合は1972年3月19日のリーグ第26節のバレンシア戦でした。レアルマドリードはルイス・カサノバで貴重な勝利(2対1)を挙げてリーグ優勝へ大きく前進。先制点を挙げたのがグロッソでした。オーガナイザーとしてプレイ、アギラールの決勝ゴールを生みミゲル・ムニョス監督率いるチームに勝ち点2をもたらしました。1974年−1975年のシーズン、自身6度目のリーグ優勝を達成。1975年−1976年のシーズン、第12節のエルチェ戦がリーグでの最後の試合になりました。
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1976年に現役引退後、指導者として歩みだしました。ボスコフ、アマンシオ、モロウニイ、ベーンハケル、トシャック、アンティッチとフローロが監督を務めた際、第2コーチとしてチームを支えました。
2002年2月13日未明、セントロ病院でガンのため死去。(ここ4年は病気との闘いでした。)ペレス会長、ヘントからイエロまでが出席してトレス・カントスのラ・パス墓地で葬儀が行なわれました。CSDは、スポーツ功労賞を贈りました。
グロッソが、人生で最後に行ったことは病院のベッドでラスパルマスに7対0で勝つ試合をラジオで聴くことでした・・・ |
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選手生命の危機・・・
ラモン・グロッソは、常に、率先して努力してきました。走り込みでチームに貢献できるのであれば、休まず走り続けるような選手でした。伝説となってますが、怪我を克服してきました。半月盤損傷で3ヶ月の戦線離脱になることもありましたが、選手生命の最大の危機はフベニール時代でのこと。
2年目のシーズンが始まる際、メディカルチェックで心疾患が判明。現役引退の必要がありました。1年間プレイしませんでしたが回復。逆に、最も強心臓な選手になりました。
グロッソのユーモア
ディ・ステファノとヘントに対して、「私は、5回も6回も欧州カップ(現チャンピオンズリーグ)を獲ってないですけど、軍の世界選手権で優勝したことがあるんですよ。あなた方にはないでしょうけどね・・・」と言ってからかってました。実際、徴兵で入隊した際、1965年に優勝。ヘントとは公私で関係がありました。と言うのも、娘のアンヘラは、ヘントの甥のパコ・リョレンテ(元レアルマドリード)と結婚したため。
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| 基本情報 |
| 生年月日 |
1943年12月8日−2002年2月13日 |
| 出身地 |
マドリード |
| 国籍 |
スペイン |
| 身長 |
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| 体重 |
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| 選手 |
| ポジション |
ミッドフィールダー |
| レアルマドリード在籍 |
1959年7月1日−1976年8月31日 |
| 1部リーグデビュー |
1964年1月12日 アトレティコ・マドリード対ムルシア |
| 代表デビュー |
1967年3月1日 トルコ対スペイン |
| 代表最終出場試合 |
1970年4月22日 スイス対スペイン |
| 代表出場試合数 |
14試合(1得点) |
| 監督 |
| 契約 |
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| 1部リーグデビュー |
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| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 1962年−1963年 |
プルス・ウルトラ |
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- |
- |
- |
- |
- |
| 1963年−1964年 |
アトレティコ・マドリード ※レンタル移籍 |
12 |
3 |
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- |
- |
- |
| 1964年−1965年 |
レアルマドリード |
28 |
17 |
4 |
2 |
C1 |
5 |
4 |
| 1965年−1966年 |
レアルマドリード |
29 |
11 |
2 |
1 |
C1 |
8 |
3 |
| 1966年−1967年 |
レアルマドリード |
24 |
10 |
5 |
2 |
C1 |
4 |
1 |
| 1967年−1968年 |
レアルマドリード |
26 |
3 |
8 |
0 |
C1 |
7 |
2 |
| 1968年−1969年 |
レアルマドリード |
25 |
3 |
2 |
0 |
C1 |
2 |
0 |
| 1969年−1970年 |
レアルマドリード |
28 |
5 |
9 |
1 |
C1 |
3 |
1 |
| 1970年−1971年 |
レアルマドリード |
13 |
0 |
1 |
0 |
C2 |
6 |
0 |
| 1971年−1972年 |
レアルマドリード |
32 |
3 |
3 |
0 |
C3 |
4 |
0 |
| 1972年−1973年 |
レアルマドリード |
16 |
1 |
2 |
0 |
C1 |
1 |
0 |
| 1973年−1974年 |
レアルマドリード |
26 |
0 |
7 |
1 |
C3 |
2 |
0 |
| 1974年−1975年 |
レアルマドリード |
17 |
0 |
5 |
0 |
C2 |
2 |
0 |
| 1975年−1976年 |
レアルマドリード |
1 |
0 |
1 |
0 |
C1 |
0 |
0 |
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| タイトル(選手) |
| スペイン |
| リーグ |
1964年−1965年 1966年−1967年 1967年−1968年
1968年−1969年 1971年−1972年 1974年−1975年
1975年−1976年 |
| コパデルレイ |
1969年−1970年 1973年−1974年 1975年−1976年 |
| ヨーロッパ |
| チャンピオンズリーグ |
1965年−1966年 |
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| 監督経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
| 試合 |
勝 |
引分 |
負 |
| 1976年−1977年 |
マヘリット・フベニール |
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| 1979年−1981年 |
レアルマドリード・フベニールA |
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| 1981年−1982年 |
レアルマドリード ※補佐 |
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| 1982年−1984年 |
カスティーリャ/2部リーグ ※補佐 |
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| 1984年−1994年 |
レアルマドリード ※補佐 |
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