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| レアルマドリード歴代選手情報 |
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| ヘント/Francisco Gento Lopez |
| ラシン・サンタンデールからレアルマドリードへ |
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フランシスコ・ヘント・ロペスは、1933年10月21日にグアルニソ(カンタブリア)で生まれました。父親はトラック運転手。小さな農場で飼っていた牛の世話をするため、父親を手伝うため14歳で学業を断念。
幼少期、いつの日かラシン・サンタンデールでプレイすることを夢見てグアルニソでボールを追いかけていました。(歴代最高の左エクストレーモとして伝説の名選手となることを誰が想像したでしょうか・・・)
パコ・ヘントは、ヌエバ・モンターニャと言うチームでサッカーを本格的に始めました。この頃、サッカーと陸上競技をこなしてました。(そのスピードはサッカー選手としてヘントを有名にしました。)その後、パコはアスティリェロへ移りました。14歳でこのチームでプレイ、地域大会で9得点を挙げました。
このため、ラヨ・カンタブリアが契約金3,000ペセタ、年俸500ペセタ、1勝毎に50ペセタのインセンティブ付で契約。1953年、ラシン・サンタンデールへステップアップしてその名前が”全国区”になりました。 |
1953年夏、レアルマドリードのアルバロ・ブスタマンテ副会長は、戦力補強の担当でしたが、将来性ある若手エクストレーモが地元でプレイしていることを役員会で話しました。この結果、ヘントは、5年契約、年25,000ペセタ、月収4,000ペセタでレアルマドリードと契約することができました。
”ラ・ガレルナ・デル・カンタブリコ”(カンタブリアの疾風)の異名をとったヘントのレアルマドリードでの最初の頃は惨憺たるものでした。驚異のスピード、テクニックの欠如、素早い攻撃は、多くの場合、オフサイドになりました。その驚異のスピードは、最初のシーズン、全く活かされませんでした。(ボールを蹴りながらの100メートルが10.9秒を記録。当時の100メートルの世界記録は9.9秒でした。)
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| チャンピオンクラブズカップで6回優勝 |
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しかしながら、或る南米出身の若者の加入がフランシスコ・ヘントのサッカー人生を変えました。アルゼンチン人インテリオールのエクトル・リアルでした。(リアルは、1954年6月16日にウルグアイのナシオナルからレアルマドリードへ加入。)
ヘントのスピードをコントロールして最大限の効果が出るようにしました。ヘントの足元への40メートルを越すパスは、止めに入る相手選手全員をかわしてシュートを放つ素晴らしいサイド攻撃で結実。(最前線は、左からヘント、ディ・ステファノ、プスカス。リアルが後方からヘントをサポートしました。) |
この時以降、ヘントのサッカー人生は、国内外で成功に満ちたものになりました。レアルマドリードに18年間所属。リーグで427試合に出場して128得点を記録。優勝回数は12回。また、総統杯(現コパデルレイ)では19ゴールを挙げてタイトルを2回獲得しました。
ヘントの名声は、スペインの国境を越えて広がっていきました。欧州内でもパコは”キング”でした。ヘントは、チャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)に15年連続で出場。更に、決勝戦に8回出場してタイトルを6回獲得しました。(これらの記録は未だに破られていません。)最後に優勝した時が一番思い出深いことでしょう。と言うのも、若手スペイン人選手で構成された”イェーイェース”と言う若きチームの牽引役であったため。
出場した最初の決勝戦は、パリで行なわれたスタッド・デ・ランス戦でした。レアルマドリードが4対3で勝利。2度目のタイトルは、フィオレンティーナを相手にサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで獲得しました。3度目のタイトルは、ブリュッセルでのミラノ戦。ヘントは延長戦で決勝ゴールを挙げました。4度目のタイトルはシュツットガルトでのスタッド・デ・ランス戦。レアルマドリードが2対0で勝利。5連覇は、グラスゴーで行なわれたアイントラハト・フランクフルト戦でした。レアルマドリードが7対3で勝利。
パコ・ヘントが一番嬉しかったタイトルはチャンピオンクラブズカップでの6回目のタイトルでした。キャプテンとして”イェーイェース”・レアルマドリードを牽引。世代交代で変革期を迎える中、フランシスコ・ヘントだけが伝説の選手として残っていましたが、11人のスペイン人選手が偉業を成し遂げました。
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| スペイン代表の最多出場記録を樹立 |
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レアルマドリードの伝説のキャプテンの代表でのキャリアは、長期間に及び輝かしいものでした。通算43試合に出場。(長らくスペイン代表の記録を誇っていました。)ワールドカップには2回出場しました。
ヘントは、チャマルティン・スタジアム(現サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアム)で行なわれたイングランド戦でラモン・メルコン監督により起用されてスペイン代表でデビュー。試合は1対1の引き分けに終わりました。スペイン代表では通算5得点を記録。(チームメートに何度もゴールを譲ったのは事実。)
1963年、ヘントはFIFA選抜チーム入りしました。ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行なわれたイングランド代表との試合で世界選抜に選ばれました。
フランシスコ・ヘントのスペイン代表での最後の試合は1969年10月15日のことでした。36歳の誕生日が間近でしたが、ヘントは、ワールドカップ欧州予選のスペイン対フィンランドの試合まで代表でプレイ。この試合はスペインが6対0で勝利。クバラ監督のデビュー戦でした。 |
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| 夢のような獲得タイトル |
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ヘントが選手として獲得したタイトルは群を抜いています。間違いなく、クラブレベルで最も多くの栄誉を受けた選手だと言えるでしょう。
レアルマドリードでプレイした18年間、ヘントは、チャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝6回、リーグ優勝12回、総統杯(現コパデルレイ)優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝1回などを達成しました。
マドリード勲章、シスネロス十字勲章やカトリック王イサベル女王勲章を授与されて栄誉を称えられました。 |
また、スポーツ栄誉賞をなんと8回受賞。(金が2回、銀が1回、銅が5回)1964年のモンタニェス最優秀スポーツ選手賞を獲得。1970年にアレルタ賞を受賞。(ヘント自身は、唯一、獲得できなかったワールドカップのタイトル以外はすべてを獲得したとコメント。)
フランシスコ・ヘントの栄誉を称えるための試合が2試合行なわれました。最初は、未だ現役でしたが、1965年のことでした。対戦相手はリバープレート。レアルマドリードが3対1で勝利を収めました。世界最高の左エクストレーモの栄誉を称えました。
1972年12月14日、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムの25周年記念と合わせてヘントの栄誉を称えるための2度目の試合が行なわれました。レアルマドリードは、オス・ベレネンセスと対戦して2対1で勝利を収めました。この夜、レアルマドリードには、ハンガリー人選手のベネ、ポルトガル人選手のエウゼビオやルーマニア人選手のドブリンと言ったスター選手が加わりました。
レアルマドリードの攻撃陣は、ベネ、サンティリャーナ、エウゼビオ、ドブリンとヘントで形成。ヘントは20分間プレイしました。レアルマドリードがPKを得た際、スタジアムを一杯にしたファンはヘントの名前を合唱、ヘントがPKを蹴ることを強く求めました。ヘントはレアルマドリードのため自身最後となるゴールを挙げました。
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| 監督からレアルマドリードの”大使”に |
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現役引退後、ヘントは、監督の資格を取得。カスティーリャ、カステリョン、パレンシア、グラナダやレアルマドリードの下部組織の複数のチームを指揮しました。
その後、ヘントは、欧州内でのレアルマドリードの”大使”として活動しています。無二の友人であるアルフレド・ディ・ステファノ名誉会長と共にトップチームの欧州内の遠征に同行しています。
獲得したタイトルや褒賞の数にも拘らず、ヘントの謙虚さと飾り気がない点は変わりません。「私がレアルマドリードへ来てなければ、私の側に偉大なスター選手がいなければ、サッカー界でこうは上手く行かなかっただろう。」 |
ヘントは、2005年ゴールデン・フット賞を受賞。モナコのグリマルティ・フォーラム側のチャンピオンズ・プロムナードに足形が飾られました。(ディ・ステファノは2004年に受賞)レアルマドリードTVが、「ヘント、ウン・パセオ・エントレ・レイェンダス」を放送。(2005年10月)
2006年3月2日、チャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)50周年を記念してUEFA(欧州サッカー連盟)より栄誉を称えて記念盾が贈られました。4月4日にフランスのランスで行なわれたUEFAのチャンピオンズリーグの記念式典にコパと共に出席。
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ヘント・ファミリー
パコ・ヘント、フリオ・ヘントとアントニオ・ヘントのヘント3兄弟として有名。フリオは右エクストレーモとしてプルス・ウルトラで活躍。アントニオは1961年から1962年までレアルマドリードでプレイ。また、パコ・リョレンテ(1987年−1994年)とフリオ・リョレンテ(1988年−1990年)のリョレンテ兄弟はパコ・ヘントの従兄弟。
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| 基本情報 |
| 生年月日 |
1933年10月21日 |
| 出身地 |
グアルニソ/カンタブリア |
| 国籍 |
スペイン |
| 身長 |
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| 体重 |
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| 選手 |
| ポジション |
ミッドフィールダー(左エクストレーモ) |
| レアルマドリード在籍 |
1953年9月10日−1971年6月30日 |
| 1部リーグデビュー |
1953年2月22日 ラシン・サンタンデール対バルセロナ |
| 代表デビュー |
1955年5月18日 スペイン対イングランド |
| 代表最終出場試合 |
1969年10月15日 スペイン対オランダ |
| 代表出場試合数 |
43試合(5得点) |
| 監督 |
| 契約 |
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| 1部リーグデビュー |
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| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 1952年−1953年 |
ラシン・サンタンデール |
10 |
2 |
|
|
- |
- |
- |
| 1953年−1954年 |
レアルマドリード |
17 |
4 |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1954年−1955年 |
レアルマドリード |
24 |
6 |
3 |
0 |
- |
- |
- |
| 1955年−1956年 |
レアルマドリード |
29 |
7 |
6 |
3 |
C1 |
7 |
1 |
| 1956年−1957年 |
レアルマドリード |
27 |
7 |
3 |
0 |
C1 |
8 |
1 |
| 1957年−1958年 |
レアルマドリード |
28 |
7 |
5 |
1 |
C1 |
6 |
3 |
| 1958年−1959年 |
レアルマドリード |
21 |
7 |
5 |
2 |
C1 |
8 |
1 |
| 1959年−1960年 |
レアルマドリード |
27 |
15 |
5 |
4 |
C1 |
6 |
2 |
| 1960年−1961年 |
レアルマドリード |
28 |
9 |
8 |
3 |
C1 |
2 |
1 |
| 1961年−1962年 |
レアルマドリード |
25 |
6 |
9 |
3 |
C1 |
10 |
2 |
| 1962年−1963年 |
レアルマドリード |
25 |
7 |
5 |
1 |
C1 |
2 |
1 |
| 1963年−1964年 |
レアルマドリード |
24 |
12 |
2 |
0 |
C1 |
9 |
3 |
| 1964年−1965年 |
レアルマドリード |
23 |
4 |
3 |
0 |
C1 |
6 |
5 |
| 1965年−1966年 |
レアルマドリード |
28 |
10 |
3 |
2 |
C1 |
9 |
3 |
| 1966年−1967年 |
レアルマドリード |
20 |
11 |
5 |
0 |
C1 |
4 |
0 |
| 1967年−1968年 |
レアルマドリード |
24 |
8 |
0 |
0 |
C1 |
7 |
5 |
| 1968年−1969年 |
レアルマドリード |
26 |
8 |
2 |
1 |
C1 |
2 |
0 |
| 1969年−1970年 |
レアルマドリード |
25 |
4 |
4 |
1 |
C1 |
3 |
2 |
| 1970年−1971年 |
レアルマドリード |
7 |
0 |
0 |
0 |
C2 |
6 |
0 |
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| タイトル(選手) |
| スペイン |
| リーグ |
1953年−1954年 1954年−1955年 1956年−1957年
1957年−1958年 1960年−1961年 1961年−1962年
1962年−1963年 1963年−1964年 1964年−1965年
1966年−1967年 1967年−1968年 1968年−1969年 |
| コパデルレイ |
1961年−1962年 1969年−1970年 |
| ヨーロッパ |
| チャンピオンズリーグ |
1955年−1956年 1956年−1957年 1957年−1958年
1958年−1959年 1959年−1960年 1965年−1966年 |
| ラテンカップ |
1955年 1957年 |
| インターナショナル |
| ヨーロッパ/サウスアメリカカップ |
1960年 |
| スモールワールドカップ |
1956年 |
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| 監督経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
| 試合 |
勝 |
引分 |
負 |
| 0000年−0000年 |
カスティーリャ |
|
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| 0000年−0000年 |
カステリョン |
|
|
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|
| 0000年−0000年 |
パレンシア |
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| 0000年−0000年 |
グラナダ |
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