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| レアルマドリード歴代選手情報 |
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| ディ・ステファノ/Alfredo Di Stefano Laluhe |
| リバープレートでデビュー、コパアメリカで優勝 |
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アルフレド・ディ・ステファノは、1926年7月4日、ブエノスアイレス(アルゼンチン)で3人兄弟の長男として生まれました。”ブロンドの矢”の異名をとったディ・ステファノは、地元のスポルティボ・デ・バラカスでサッカーを始めました。
ディ・ステファノは、15歳でリバープレートのユースチームと契約。1943年、サン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でトップチームでのデビューを果たしました。当時、”ラ・マキナ”と呼ばれた最強のフォワード陣の中、ディ・ステファノは、センターフォワードと言うよりも右ウイングでプレイしました。
1945年と1947年にリーグ優勝を達成。1947年は27得点を挙げて得点王に輝きました。また、1947年12月にエクアドルで行われたコパ・アメリカでアルゼンチン代表チームに招集、6試合全てに出場して6得点を記録、アルゼンチンの優勝に貢献しました。 |
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| アルゼンチンからコロンビアへ |
1949年、アルゼンチンで選手のストライキが始まり、多くのトッププレイヤーは、コロンビアへと移って行きました。当時、コロンビアは、FIFAの管轄外のため移籍金を支払う必要がなく、クラブは、高額年俸を支払う余裕があったのでしょう。後に、レアルマドリードでコンビを組むリアルもその中に含まれていました。
ディ・ステファノは、結局、ボゴタのミリョナリオスへ移籍しました。ミリョナリオスにはペデルネラ、ピニ、ピポ、ロッシなど当時を代表する選手が集まっていました。1952年3月、ミリョナリオスは、レアルマドリードのクラブ創立50周年記念大会に招待されました。ディ・ステファノのゴールは、レアルマドリードのファンを驚愕させて、ミリョナリオスが同大会で優勝しました。
ディ・ステファノは、ミリョナリオスで292試合に出場して267ゴールを記録。1949年、1951年、1952年、1953年のリーグ優勝に貢献。1951年に31得点、1952年に20得点を挙げて得点王に輝きました。
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| 争奪戦の末、レアルマドリードへ |
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ディ・ステファノのサッカー人生で最も重要な転機はスペインへの移籍にありました。レアルマドリードとバルセロナが獲得に動き出して、スペインでディ・ステファノの争奪戦が起こりました。と言うのも、双方が同選手の権利を保有していると主張したため。
当時、サンティアゴ・ベルナベウ会長のレアルマドリードは、国内で確固たる地位を築いていましたが、”ドリームチーム”を完成させるために史上最高の選手と称えられたディ・ステファノの獲得に成功しました。 |
1953年9月23日、ディ・ステファノは、ナンシー(フランス)戦でレアルマドリードでのデビューを果たしました。レアルマドリードは2対4で敗れましたが、ディ・ステファノの勝利に満ちた伝説の始まりでした。スペインリーグでは、1953年9月27日にベルナベウで行われたラシンサンタンデール戦で初登場。1ゴールを挙げてデビューに花を添えました。
ディ・ステファノは、国内でリーグ優勝8回(1953年、1954年、1956年、1957年、1960年、1961年、1962年、1963年)、コパ・デル・ヘネラリシモ(現コパデルレイ)優勝1回(1961年)の立役者となり、また、リーグで5度の得点王に輝きました。
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| ディ・ステファノ争奪戦 |
1953年、バルセロナのエンリケ・マルティ会長とアルフォンソ・セニオル・ケベド会長との間でアルフレド・ディ・ステファノのバルセロナ移籍のための話し合いが行われました。バルセロナは、”ハッピーエンド”と言う訳には行きませんでしたが・・・セニオル会長は、ディ・ステファノに関するミリョナリオスの権利を譲渡することにより135万ペセタを要求しました。この金額は、マルティ会長には途方もない金額に思えました。
その時、レアルマドリードのアルバロ・ブスタマンテ副会長は、セニオル会長がディ・ステファノに関するミリョナリオスの権利を譲渡することにより要求する27,000ドルを携えたライムンド・サポルタ(後のレアルマドリード副会長)をボゴタへ送り込みました。
両者は合意に達して、レアルマドリードは1954年12月31日までディ・ステファノの権利を保有することとなりました。サポルタはブエノスアイレスへと向かい、バルセロナが既に共同保有していたリバープレートに対して権利の50%を払い込んでいたことを確認しました。
この時点で、レアルマドリードとバルセロナは、ディ・ステファノに関する権利を半分ずつ所有することとなりました。この係争はFIFA実行委員会に持ち込まれて、ディ・ステファノがレアルマドリードとバルセロナで2年ずつプレイすることで解決が図られました。
しかしながら、当時のスポーツに関する代理人や委員会によるやり取りが行なわれて、マルティ会長は1953年9月22日に自らの誤りの責任を取り、ディ・ステファノがレアルマドリードのユニフォームを着ることを可能にする道を開きました。
レアルマドリードは、同日、カステリャーナ・サッカー連盟に選手登録を行ないました。翌日、ディ・ステファノは、チャマルティンで行なわれたナンシー戦でデビュー。試合は、ディ・ステファノが67分に初ゴールを挙げましたが、2対4で敗れました。数日後、バルセロナの理事会はディ・ステファノに関する権利を断念しました。
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| チャンピオンズクラブズカップ5連覇 |
ディ・ステファノの活躍により、レアルマドリードは、国際的に正式な”裏書き”を手に入れました。チャンピオンズクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝5回、準優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝1回を達成。世界のサッカー界で最も輝かしいクラブチームとなりました。
特に、チャンピオンズクラブズカップでは9大会に出場、通算58試合に出場して49得点を挙げました。圧巻は1960年5月18日にグラスゴーのハンプデンパークで行われたアイントラハト・フランクフルトとの決勝戦。レアルマドリードは、ディ・ステファノの3ゴールとプスカスの4ゴールで7対3で勝利を収めてチャンピオンズクラブズカップ5連覇を達成しました。
出場選手
GK:ドミンゲス
DF:マルキートス、サンタマリア、パチン
MF:ビダン、サラガ、
FW:カナリオ、デル・ソル、ディ・ステファノ、プスカス、ヘント
結果
レアルマドリード 7−3 アイントラハト・フランクフルト
得点
0−1(クレス、19分) 1−1(ディ・ステファノ、26分) 2−1(ディ・ステファノ、29分)
3−1(プスカス、35分) 4−1(プスカス、56分) 5−1(プスカス、60分) 6−1(プスカス、71分)
6−2(ステイン、72分) 7−2(ディ・ステファノ、74分) 7−3(ステイン、76分)
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| レアルマドリードの監督から名誉会長に |
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ディ・ステファノは、レアルマドリードで510試合に出場して418ゴールを記録。また、1957年と1959年にバロンドールを受賞。
1963年8月26日未明、スモールワールドカップで滞在していたカラカスのホテル・ポトマックで国民解放戦線と言うグループに誘拐されました。しかしながら、3日後、カラカスのスペイン大使館近くで無事に開放されました。
1964年5月27日のチャンピオンズクラブズカップ決勝のインテル戦が、レアルマドリードでのディ・ステファノの公式戦最後の試合となりました。レアルマドリードを退団した翌シーズン、ディ・ステファノはエスパニョールと契約、1966年、レアルマドリード対セルティック・グラスゴー戦が引退試合となりました。 |
なお、ディ・ステファノは1956年にスペイン国籍を取得。1957年1月30日のオランダ戦でスペイン代表としてデビューしました。
現役引退後、ディ・ステファノは、数々のチームで監督を務めました。エルチェ、ボカジュニアーズ、バレンシア、ラヨバリェカーノ、スポルティング・リスボン、カステリョンとレアルマドリードの監督を歴任。特に、ボカジュニアーズとバレンシアでリーグ優勝、レアルマドリードで1982年−1983年のシーズンにリーグやコパデルレイなど5つの大会で準優勝に導きました。
1989年、フランスフットボール誌が歴代最優秀選手に選出、スーパー・バロンドールを授与。1990年、レアルマドリードの顧問に就任。同年、ドンバロン誌が過去35年間の最優秀サッカー選手に選出。1991年、レアルマドリードのOB会の会長に就任。1994年、FIFAより功労賞を受賞。1998年、FIFAより史上最重要サッカー選手8名の一人として表彰。
1999年、マルカ紙が”マルカ伝説の選手賞”を授与。2000年7月21日、フロレンティーノ・ペレス会長が選挙戦後初の総会で、アルフレド・ディ・ステファノをレアルマドリードの名誉会長に推選。2000年11月5日、ソシオの総会により批准されました。
2005年5月14日、夫人のサラ・フレイタス・バレラさんが、マドリード市内のグレゴリオ・マラニョン病院で亡くなりました。(2日前から集中治療を受けていました。)8月14日のハンガリー代表対レアルマドリードの親善試合の際、チームに帯同。アマンシオやサンタマリアと共にプスカスを訪問。
12月24日、急性心筋梗塞でバレンシアのラ・フェ大学病院へ入院。12月28日に心臓バイパス手術。2006年1月19日に退院。3月2日、チャンピオンクラブズカップ(現チャンピオンズリーグ)50周年を記念してUEFA(欧州サッカー連盟)より栄誉を称えて記念盾が贈られました。5月2日、マドリード自治州金勲章を受章。5月8日と9日のアルフレド・ディ・ステファノ・スタジアムのオープニング・セレモニーに出席。
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| 基本情報 |
| 生年月日 |
1926年7月4日 |
| 出身地 |
ブエノスアイレス(アルゼンチン) |
| 国籍 |
アルゼンチン/スペイン |
| 身長 |
178センチ |
| 体重 |
74キロ |
| 選手 |
| ポジション |
フォワード |
| レアルマドリード在籍 |
1953年9月22日−1964年6月30日 |
| 1部リーグデビュー |
1953年9月27日 レアルマドリード対ラシンサンタンデール |
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| アルゼンチン代表デビュー |
1947年12月4日 アルゼンチン対ボリビア |
| アルゼンチン代表最終出場試合 |
1947年12月28日 アルゼンチン対ウルグアイ |
| アルゼンチン代表出場試合数 |
6試合(6得点) |
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| コロンビア代表デビュー |
|
| コロンビア代表最終出場試合 |
|
| コロンビア代表出場試合数 |
4試合(0得点) |
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| スペイン代表デビュー |
1957年1月30日 スペイン対オランダ |
| スペイン代表最終出場試合 |
1961年12月10日 フランス対スペイン |
| スペイン代表出場試合数 |
31試合(23得点) |
| 監督 |
| 契約 |
1982年−1984年 1990年−1991年 |
| 1部リーグデビュー |
1967年9月10日 エスパニョール対エルチェ |
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| 選手経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 1945年 |
リバープレート(アルゼンチン) |
1 |
0 |
|
|
- |
- |
- |
| 1946年 |
ウラカン(アルゼンチン) ※レンタル移籍 |
25 |
10 |
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- |
- |
- |
| 1947年 |
リバープレート(アルゼンチン) |
29 |
27 |
|
|
- |
- |
- |
| 1948年 |
リバープレート(アルゼンチン) |
23 |
13 |
|
|
- |
- |
- |
| 1949年 |
リバープレート(アルゼンチン) |
12 |
9 |
|
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- |
- |
- |
| 1949年 |
ミリョナリオス(コロンビア) |
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|
- |
- |
- |
| 1950年 |
ミリョナリオス(コロンビア) |
|
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|
- |
- |
- |
| 1951年 |
ミリョナリオス(コロンビア) |
|
31 |
|
|
- |
- |
- |
| 1952年 |
ミリョナリオス(コロンビア) |
|
20 |
|
|
- |
- |
- |
| 1953年 |
ミリョナリオス(コロンビア) |
|
|
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|
- |
- |
- |
| 1953年−1954年 |
レアルマドリード |
30 |
27 |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1954年−1955年 |
レアルマドリード |
30 |
25 |
0 |
0 |
- |
- |
- |
| 1955年−1956年 |
レアルマドリード |
30 |
24 |
0 |
0 |
C1 |
7 |
5 |
| 1956年−1957年 |
レアルマドリード |
30 |
31 |
3 |
2 |
C1 |
8 |
7 |
| 1957年−1958年 |
レアルマドリード |
30 |
19 |
7 |
7 |
C1 |
7 |
10 |
| 1958年−1959年 |
レアルマドリード |
30 |
23 |
8 |
5 |
C1 |
7 |
6 |
| 1959年−1960年 |
レアルマドリード |
23 |
12 |
5 |
3 |
C1 |
6 |
8 |
| 1960年−1961年 |
レアルマドリード |
23 |
21 |
9 |
8 |
C1 |
2 |
0 |
| 1961年−1962年 |
レアルマドリード |
23 |
11 |
9 |
6 |
C1 |
10 |
7 |
| 1962年−1963年 |
レアルマドリード |
14 |
12 |
9 |
8 |
C1 |
2 |
1 |
| 1963年−1964年 |
レアルマドリード |
24 |
11 |
1 |
1 |
C1 |
9 |
5 |
| 1964年−1965年 |
エスパニョール |
24 |
7 |
|
|
- |
- |
- |
| 1965年−1966年 |
エスパニョール |
23 |
4 |
|
|
- |
- |
- |
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| タイトル(選手) |
| アルゼンチン |
| リーグ |
1945年 1947年 |
| リーグ得点王 |
1947年 |
| コロンビア |
| リーグ |
1949年 1951年 1952年 1953年 |
| リーグ得点王 |
1951年 1952年 |
| スペイン |
| リーグ |
1953年−1954年 1954年−1955年 1956年−1957年
1957年−1958年 1960年−1961年 1961年−1962年
1962年−1963年 1963年−1964年 |
| コパデルレイ |
1961年−1962年 |
| リーグ得点王 |
1953年−1954年 1955年−1956年 1956年−1957年
1957年−1958年 1958年−1959年 |
| 南米 |
| コパアメリカ |
1947年 |
| ヨーロッパ |
| ラテンカップ |
1955年 1957年 |
| チャンピオンズリーグ |
1955年−1956年 1956年−1957年 1957年−1958年
1958年−1959年 1959年−1960年 |
| バロンドール |
1957年 1959年 |
| インターナショナル |
| スモールワールドカップ |
1956年 |
| ヨーロッパ/サウスアメリカカップ |
1960年 |
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| 監督経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
| 試合 |
勝 |
引分 |
負 |
| 1967年−1968年 |
エルチェ |
15 |
3 |
3 |
9 |
| 1969年−1970年 |
ボカジュニアーズ(アルゼンチン) |
|
|
|
|
| 1970年−1971年 |
バレンシア |
30 |
18 |
7 |
5 |
| 1971年−1972年 |
バレンシア |
34 |
19 |
7 |
8 |
| 1972年−1973年 |
バレンシア |
34 |
12 |
10 |
12 |
| 1973年−1974年 |
バレンシア |
34 |
13 |
7 |
14 |
| 1974年−1975年 |
スポルティング・リスボン(ポルトガル) |
|
|
|
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| 1976年−1977年 |
ラヨバリェカーノ/2部リーグ |
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|
|
| 1977年−1978年 |
カステリョン/2部リーグ |
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|
| 1979年−1980年 |
バレンシア |
34 |
12 |
12 |
10 |
| 1981年−1982年 |
リバープレート(アルゼンチン) |
|
|
|
|
| 1982年−1983年 |
レアルマドリード |
34 |
20 |
9 |
5 |
| 1983年−1984年 |
レアルマドリード |
34 |
22 |
5 |
7 |
| 1986年−1987年 |
バレンシア |
12 |
3 |
2 |
7 |
| 1987年−1988年 |
バレンシア |
29 |
8 |
8 |
13 |
| 1990年−1991年 |
レアルマドリード |
15 |
7 |
1 |
7 |
|
|
| タイトル(監督) |
| アルゼンチン |
| リーグ |
1970年 1982年 |
| スペイン |
| リーグ |
1970年−1971年 |
| スペルコパ |
1990年 |
| ヨーロッパ |
| カップウイナーズカップ |
1979年−1980年 |
| スーパーカップ |
1980年 |
|
|
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