| カッサーノ/Antonio Cassano |
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元イタリア代表のフォワード。メディアプンタとしてもプレイ。ロベルト・バッジオが自らの後継者に挙げたイタリアサッカー界の至宝、次代を担うファンタジスタ。卓越したテクニックとドリブルで相手を翻弄。
2005年−2006年のシーズン、ローマからレアルマドリードへ移籍。2006年−2007年のシーズン、ファビオ・カペッロ監督が就任して以来、状態が大幅に改善。イタリア代表復帰を果たしました。2007年−2008年のシーズン、サンプドリアへ1年間のレンタル移籍(買取オプション付)。 |
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| Curiosity |
”バーリのマラドーナ”、”タレンティーノ”と称えられるカッサーノは気性の激しさが難点・・・ゴールを挙げた後、コーナーフラッグを蹴ってへし折ったことも・・・コーチの意見と衝突したり無断で練習をさぽったり(5万ユーロの罰金)つまらないと言う理由で練習試合を途中で止めたりU21イタリア代表でのプレイを拒否したり・・・話題にこと欠きません。問題を起こすことから”カッサナータ”と言う言葉が生まれました・・・
試合終了後、ファンにユニフォームをプレゼントすることも珍しくありません。104年のレアルマドリードの歴史の中、パヌッチに次ぐ二人目のイタリア人選手。
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彼女のロザリア嬢とマドリードに到着、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムを見学。[2006年1月3日]ロザリア嬢とデ・マリアで夕食を取っているところが目撃されましたが、減量プログラムのため、少量のハム、サラダ、肉の切り身が4切れがメニュー。ガス入りの水を注文、レモン・シャーベットはカーバが入っていたため断っていました。[2006年1月5日]左腕に、”安東尼奥”のタトゥーがあります・・・[2006年1月]
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カッサーノは、1982年7月12日、父親ジェンナーロと母親ジョバンナ・パレーリの間で長男としてバーリ・ヴェッキア地区、サン・バルトロメオ通り5番地に誕生。(警官も敢えて立ち寄らない地区です。)パオロ・ロッシがサンティアゴ・ベルナベウでゴールを挙げてイタリアがワールドカップ・スペイン大会で優勝した翌日のことでした。
幼少期は極めて厳しいものでした。(恐らく、反逆精神はここで形成されて行ったのでしょう。)父親のジェンナーロはジョバンナが妊娠した僅か後に出て行き息子とは一切かかわりを持ちませんでした。清掃業に従事していましたが税金滞納で警察から逃げる必要がありました。(父親に関する情報はそれ以上ありません。)バーリ・ヴェッキアは子供が成長していくため全く理想的な環境ではなくサッカー以外の気晴らしはありませんでした。
当時、トニーノと呼ばれていた少年はバーリの通りでボール捌きの才能を磨きました。駐車場をスタジアムと見立ててフェラレーゼ広場で友達とサッカーに興じていました。そこでカッサーノは朝から晩までプレイ。ジョバンナが夕食を手にして探しに来ることすらありました。バレンティーナとの初恋までセルジーノやニコラと言った友達と共に夢が一杯の時代でした。バーリ・ヴェッキアでの苦しい生活にカッサーノはボールで応えました。
ボールに話しかけることができる少年がバーリにいると言う噂が広がり、プロ・インテルのトニーノ・ラナ会長が知るところとなりました。カッサーノは、既に、多くの者にとって、”バーリのマラドーナ”になっていました。実際、”エル・ペルーサ”、マラドーナはカッサーノの憧れの選手の一人。従って、ナポリ、歌手のジジ・ダレッシオのファンになりました。(ナポリ出身のサッカー選手、ミッコリやモンテッラとは良い関係をキープしています。)
フィオレンティーナ、インテルとパルマのテストを受けた後、10歳のカッサーノは地元のバーリ・ヴェッキアから引っ越さないことを決断。プロ・インテルへ入り、あらゆる個人技を披露。14歳でフベニールの大会の決勝戦に出場。後半、監督に交代させられるところでした。「俺?交代なんて酷いよ!」後半、5得点を挙げてチームは快勝。(プロ・インテルでの頃のことをよく覚えています。年齢以上のプレイ、個人技を見せていました。)
また、ある時、キーパーが退屈しないように味方のゴールにシュートすることもありました。また別の時は、ゴールを挙げるため希望する場所を監督に尋ねるため敵のゴールの前でボールを手で止めることもありました。エピソードは枚挙に暇がありませんがバーリのフベニールと契約を交わすのに年月を要しませんでした。
弱冠15歳で夢にまで見たチームに所属。トップチームのエウジェニオ・ファシェッティ監督は、ニキビ面のこの少年を注意深く見守っていました。ユースチームを駆け足でステップアップしたカッサーノは、トリゴリアでのローマとのフベニールの決勝戦では独断場になり、トッティ自身がカッサーノに関心を寄せていました。トッティは、カッサーノの憧れの選手になりローマの熱狂的なファンになりました。
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| 1999年−2000年 |
ファシェッティ監督は、サンプドリア戦で16歳のカッサーノに時間を与えるため、スピネッシ、オスマノフスキとマシンガの怪我を利用しようとしました。その6ヵ月後、最大のチャンスがやって来ました。1999年12月11日のセリエA第13節のレッチェとのダービーでした。バーリの育成部門の責任者、レオナルド・ジェネローソがチャンスを与えてカッサーノはセリエAでデビュー。バーリは敗れましたが、カッサーノはポジションを獲得。
12月18日にサン・ニコラで行なわれたセリエA第14節のインテル戦でファシェッティ監督はカッサーノとエンニャナヤの若い2トップを採用。バーリはエンニャナヤのゴールで先制しましたがヴィエリのゴールで追いつかれました。試合終了間際の87分、カッサーノのゴールが決勝点となりバーリが2対1でインテルを下しました。
カッサーノは自陣でボールを受けてドリブルで持ち込みブランとパヌッチをかわしてキーパーのフェロンと1対1になりクロスシュートを放ちました。狂喜乱舞したカッサーノは警告を受けるオマケ付・・・(センセーショナルなセリエA初ゴール以来、イタリアサッカー界で注目の存在になりました。メディアはロベルト・バッジオやサンドロ・マッツォーラなどと比較・・・インテル、ユベントスやローマが関心を示しました。)
カッサーノはセリエAで21試合に出場して3得点を記録。バーリは14位でシーズンを終了。
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| 2000年−2001年 |
2000年9月2日のU21欧州選手権予選のハンガリー戦に出場、2ゴールを挙げて勝利に貢献。U21イタリア代表でデビュー・・・マンチェスター・ユナイテッドへの移籍が報道されましたが否定・・・10月10日のU21欧州選手権予選のグルジア戦に出場、1ゴールを挙げて勝利に貢献。カッサーノはセリエAで27試合に出場して3得点を記録。バーリは最下位でセリエBに降格。ユベントスとローマが獲得に関心・・・
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| 2001年−2002年 |
バーリからローマへ移籍。(5年契約、移籍金3,000万ユーロ)2002年1月13日のセリエA第18節のベローナ戦でローマでの初ゴールを記録。チームの勝利に貢献。5月5日のセリエA最終節のトリノ戦で決勝ゴールを記録。ローマはユベントスに次いで2位に入りチャンピオンズリーグの出場権を獲得。
ファビオ・カペッロ監督は主に交代選手としてカッサーノを起用。途中出場は19回、先発出場は僅か3回でした。限られた出場機会の中で5得点を記録。
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| 2002年−2003年 |
2002年9月17日のチャンピオンズリーグ1次リーグ第1節のレアルマドリード戦に出場。10月2日のチャンピオンズリーグ1次リーグ第2節のゲンク戦で決勝ゴールを記録。チャンピオンズリーグで初ゴール・・・
ローマで2年目のシーズン、成長振りを見せてセリエAで27試合に出場して9得点を記録。(交代出場は12試合)ローマは8位でシーズンを終了。2003年5月、ミランとのコッパ・イタリア決勝戦に出場。レッドカードで退場・・・チームは3対6(2試合合計)で敗北。
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| 2003年−2004年 |
2003年11月12日のポーランドとの親善試合でトラパットーニ監督がイタリア代表に招集。カッサーノは華麗なループシュートを決めてイタリア代表でのデビュー戦を飾りました・・・2004年3月、UEFAカップ4回戦でビリャレアルに2対3(2試合合計)で敗れました。UEFAカップで6試合に出場して4得点を記録。
モンテッラの負傷が門戸を開き、カペッロ監督もカッサーノの才能を如何に活かすかを把握、セリエAで33試合に出場して14得点を記録。トッティと共にチームを牽引、ローマは2位に入りチャンピオンズリーグの出場権を獲得。インテルが獲得に関心・・・
6月12日から7月4日までポルトガルで開催の欧州選手権でイタリア代表に招集。イタリアはグループリーグ3位で敗退。カッサーノは3試合に出場して2得点を記録。精彩を欠いた代表の中で1人輝きを放っていました。グループリーグ最終節のブルガリア戦で勝ち越しゴールを記録。しかしながら得点に喜んでベンチへ駆け寄った際にデンマーク対スウェーデン戦の試合が終了直前に同点となりイタリアの敗退決定を聞かされました・・・
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| 2004年−2005年 |
唯一、カッサーノをコントロールできたカペッロ監督がユベントスへ移りました。(後任のプランデッリ監督はシーズン前に辞任。その後、ルディ・フェラー監督が就任して不幸が始まりました・・・)2004年9月12日のセリエA開幕戦のフィオレンティーナ戦でキエッリーニに平手打ちを喰らわして退場処分に・・・9月15日のチャンピオンズリーグ・グループステージ第1節のディナモ・キエフ戦で先発メンバーから外されました・・・
9月28日にサンティアゴ・ベルナベウで行なわれたチャンピオンズリーグ・グループステージ第2節のレアルマドリード戦でゴールを挙げましたがチームは2対4で逆転負け。(ルイージ・デル・ネッリ監督が就任して状況が改善・・・)10月3日のセリエA第5節のインテル戦の60分に交代を命じられて激怒・・・オリンピコのファンはカッサナータをサポート・・・
10月31日のセリエA第9節のカリアリ戦でデル・ネッリ監督とトラブル・・・(ローマはカッサーノに謝罪を要求しましたがカッサーノは拒否。)11月6日のセリエA第10節のミラン戦で先発メンバーから外されました・・・ローマが放出を検討・・・ミランが獲得に関心・・・11月14日のセリエA第12節のレッジーナ戦でチームに復帰。2005年3月、レアルマドリードが1,800万ユーロで獲得に関心・・・
3月26日のワールドカップ欧州予選のスコットランド戦でイタリア代表に復帰。5月20日のセリエA第37節のアタランタ戦で決勝ゴールを記録。セリエA残留が確定。セリエAで31試合に出場して9得点を記録。6月4日のワールドカップ欧州予選のノルウェー戦に出場。6月12日と15日のインテルとのコッパ・イタリア決勝戦に出場。ローマは0対3(2試合合計)で敗れました。6月、ユベントスが獲得に関心・・・
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| 2005年−2006年 |
2005年11月24日のUEFAカップ・グループステージ第2節のストラスブール戦で同点ゴールを記録。12月4日のセリエA第14節のレッチェ戦で先制ゴールを記録。12月11日のセリエA第15節のパレルモ戦でゴールを挙げましたがチームは1対2で惜敗。(ローマでの最後のゴール)セリエAで5試合に出場して2得点を記録。UEFAカップで2試合に出場して1得点を記録しました。
2006年1月3日にレアルマドリードへ移籍。(4年契約、移籍金は550万ユーロ)1月4日、メディカル・チェック、入団発表。背番号はバーリとローマ時代の18番から19番に変わりました。バルデベバスで練習を開始。体重オーバーのため、”減量プログラム”を続けていましたが1月13日の全体練習からチームに合流。1月15日の1部リーグ第19節のセビリア戦で初めて招集されました。
1月18日のベティスとのコパデルレイ準々決勝第1戦の61分にソルダードに代わり出場してレアルマドリードの公式戦でデビュー・・・64分に先制ゴールを挙げてチームの勝利に貢献しました。1月21日の1部リーグ第20節のカディス戦の58分にグラベセンに代わり出場してスペインリーグでデビュー・・・1月25日のベティスとのコパデルレイ準々決勝第2戦で初の先発出場を果たしました。
3月4日の1部リーグ第26節のアトレティコ・マドリード戦でリーグ初先発出場。先制ゴールはスペインリーグ初ゴールとなりました。5月9日のアルフレド・ディ・ステファノ・スタジアムの完成を記念したスタッド・ランス戦でドブレーテを達成。期待されながらもリーグでは12試合(373分)で1得点に留まりました。
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| 2006年−2007年 |
2006年7月12日、バルデベバスでプレシーズンを開始。7月17日からのイルドニング合宿に参加。プレシーズン中、ローマで使用していた18番を使用。7月25日のATVイルドニングとの練習試合で4得点・2アシストの大ブレイク。カペッロ監督に猛アピール。8月7日からの米国遠征に参加。8月9日のDCユナイテッドとの親善試合で1ゴールを記録。背番号18番で選手登録。プレシーズンでチーム最多の5得点を記録。
欧州選手権予選のリトアニア戦(9月2日)とフランス戦(9月6日)に出場。9月10日の1部リーグ第2節のレバンテ戦で1ゴールを記録。リーグ初勝利に貢献。10月25日のエシハとのコパデルレイ決勝トーナメント1回戦第1戦で先制ゴール。(1対1)10月30日、監督への敬意を欠く言動により全体練習参加の無期限停止処分に・・・謝罪して11月11日からチームに復帰。12月17日、ディアラと共に再び監督批判。
2007年1月、インテルが獲得に関心・・・ミランのオリベイラとのトレード話が浮上・・・2月24日の1部リーグ第24節のアトレティコ・マドリード戦で久々のプレイ。イグアインにスペインリーグ初ゴールをプレゼント。6月17日の1部リーグ第38節のマリョルカ戦を制してリーグ優勝。
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| 2007年−2008年 |
2007年7月21日、バルデベバスでプレシーズンを開始。8月14日、サンプドリアへ1年間のレンタル移籍(買取オプション付)。2008年5月30日、レアルマドリードはカッサーノの完全移籍でサンプドリアと合意に達したことを発表。
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