| カルロス・パドロス/Carlos Padros Rubio |
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カルロス・パドロスはフアン・パドロス前会長の弟。クラブ創立メンバー。足を引き摺っておりマドリードFCでは一度もプレイすることはありませんでしたが、グランド外でのクラブ創設の最大の功労者でした。
カルロスは農業の改革者であり、農業機械を畑に持ち込み新たな耕作を実験。アルフォンソ13世国王から農業での功労賞を授与されました。また、フランス政府からレジョンドヌールも授与されました。
愛する町、マタロのために議会で争ったりしましたが、洪水問題を解決してカタルニアの歴史に名を残しました。(マタロFCのスタジアムは、同氏を記念してスタジアムにその名前を付けました。)
カルロス・パドロスは、サッカーを組織立たせる必要があるとして自らが設立したマドリード・フットボールクラブ連盟の会長を退き、1904年、兄のフアン・パドロスの後を継いでマドリードFCの会長に就任しました。 |
1904年1月30日、コパデルレイのためにチームの戦力アップを図ることを目的として、マドリードのクラブ、モデルノと統合しました。また、世界的に代表レベルでのプレイを調整する会議がパリで開催される知らせを聞き、クラブの代表としてアンドレ・エスピールを送りました。これにより、1904年5月、マドリードFCは、フランス、オランダ、ベルギー、スイス、スウェーデン及びデンマークと共にFIFAの創立メンバーとなりました。
1905年10月23日、フランスのルベ大統領のマドリード公式訪問を機に、カルロス・パドロス会長率いるマドリードFCは、イポドロモでガリア・スポルト・デ・パリと初めての国際試合を行ないました。(試合は1対1の引分)会長在任中、マドリードFCは、コパデルレイ4連覇を達成。1907年12月、アドルフォ・メレンデスに会長を引き継いだカルロス・パドロスは、役員会で終身名誉会長に選出されました。
マドリードFCは、1912年10月31日にビルバオのホラセータに次いでスペインで2番目となるフェンスで観客席を設けたオ・ドンネル・サッカー場を完成させましたが、カルロス・パドロス前会長の金銭的支援がありました。1950年12月30日、マドリードのセラーノ通りにある自宅で亡くなりました。ラ・コンセプシオン教会で行なわれた葬儀には何十人もの人が駆けつけました。
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コパデルレイ初制覇
1905年4月18日、マドリードFCは、ティーロ・デ・ピチョンに隣接したアスレチック・マドリードのサッカー場でアスレチック・ビルバオとコパデルレイの決勝戦で対戦しました。試合は、残り時間20分、パラヘスとの連携からプラストの放ったシュートが決まり、マドリードFCが1対0で勝利を挙げて、アスレチック・ビルバオの3連覇を阻止しました。マドリードFCは、公式大会で初めてのタイトルを獲得しました。
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