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| ZINEDINE ZIDANE - BIOGRAPHY |
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| 2001年7月9日 |
| レアルマドリードへ移籍 |
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フロレンティーノ・ペレス会長が前年のフィーゴに続いて獲得。史上最高の115億ペセタの移籍金でレアルマドリードへ移籍。(契約違約金は300億ペセタ。3年間の利子が10億ペセタ、代理人のミグリアッチオ氏に5億3,300万ペセタ、合計130億ペセタ。)
シウダード・デポルティーバの旧パベリョン・デ・イエロで行なわれた入団発表会で、ペレス会長は、「ジダンは、レアルマドリードでプレイするために生まれてきたサッカー選手です。」と紹介。ジダンは微笑んでいました。と言うのも、スペイン系のベロニク夫人のためスペイン語を理解しているため。
ジダンは、ディ・ステファノ名誉会長の手から今後4年間使用するユニフォームを受け取りました。ユニフォームを眺めて、心からの満足さを示しました。 |
そして、ユニフォームを反対にして見せたときに驚きが・・・21番ではありませんでした。グラン・カピタン、サンチスが付けていた5番。マルキートス、サンタマリア、デ・フェリペ、ベニトやレドンドも付けていた5番は、サッカー史上最高額での移籍を象徴する番号になりました。
(後日、インタビューで5番を選んだ理由を聞かれて、「3つ好きな番号がある。7番、10番と21番だ。だけど、7番はラウル、10番はフィーゴ、ソラリから21番を取るわけにはいかないでしょ。彼は僕に譲るって言ってくれたんだけど。会長は1番から11番の間で決めたがってた。5番が空いてたんだ。サンチスが付けてたので。だからそれを選んだんだ。」とコメント。)
ジダンが話したのは僅か3分だけでしたが、レアルマドリードへの移籍を喜んでいる様子が見られました。「レアルマドリードへの移籍は名誉です。この瞬間をずっと待っていました。ここ、スペインリーグへ、最高のクラブへ移るにはベストな時だと思います。ユベントスでプレイした後ですので、ここにいることは栄誉に感じます。今後4年間、ユベントスで成し遂げたようにベストを尽くします。このユニフォームを着ることに憧れていました。」
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| 交渉経緯 |
3月25日
ペレス会長がバルダーノ総合部長と話し合い。ジダン獲得のためユベントスとの交渉開始を指示。
5月 5日
ジダンが、代理人のアラン・ミグリアッチオ氏を通じてレアルマドリードのオファーに同意。5年契約、年俸15億ペセタ。
5月11日
マドリード自治州とマドリード市がシウダード・デポルティーバの売却に青信号を出しました。ペレス会長は、史上最高額での移籍を実行に移すための資金を確保することをユベントスへ連絡。
7月 2日
ペレス会長が、ルガーノでルチアーノ・モッジ会長と秘密裏に会談。仮契約に合意。
7月 4日
バルダーノ総合部長、ペレス会長、モッジ会長、ベッテガ副会長がトリノで合意。翌週、公式発表。
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| 移籍を決めた10個の理由 |
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1.ベルナベウでデビュー
2.ベロニク夫人への愛情の証
3.カルチョでの汚いプレイへの飽き
4.クラブ創立100周年の一部を構成
5.世界最高額での移籍
6.攻撃的でありプレイする喜びのあるサッカー
7.結束力があり分け隔たりがないロッカールーム
8.自身を”擁護”する会長
9.友人であり、”ピッチでのソシオ”であるマケレレ
10.自らに義務と課しているチャンピオンズリーグのタイトル |
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| 2001年7月8日−9日 |
| マドリードでの21時間 |
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12時頃、ジダンは、レアルマドリードとの契約に署名しました。14時30分にシウダード・デポルティーバへ移動。(スペイン語を理解しますがフランス語による)初めてのインタビューに応じる前、ロッカールームやメディカル・センターを見学。モリエンテスとも挨拶を交わしました。14時55分、公式サイトがジダンのレアルマドリード入りを伝えました。2分後、ペレス会長、バルダーノ総合部長、ディ・ステファノ名誉会長と共に登場。歴史的瞬間がやって来ました。
昨年のフィーゴと同様、代理人、ペレス会長、バルダーノ総合部長、ディ・ステファノ名誉会長、ブトラゲーニョ総合部長補佐、アマンシオ氏、フェルナンデス・タピアス副会長とホッケイで会食。 |
20時50分
ジダンが日曜日にプライベート・ジェットでマドリードへ到着。バルダーノ総合部長が出迎え。トレホン空軍基地にいた僅かな関係者だけがこの光景を目撃。
22時00分
リッツの最高級スイートに宿泊。バルダーノ総合部長とミグラッチオ氏が同行。誰も中に入って見ることができず。自室で夕食。誰も所在を突き止められず。
09時00分
メディカル・チェックのため早起き。デル・コラル医師がルベル病院で出迎え。裏門から入りました。検査結果は完璧。
14時20分
ジダンが初めてシウダード・デポルティーバを訪ねました。メディカル・センターにいたモリエンテスと挨拶。ブトラゲーニョ総合部長補佐がラモン・マルティネス・サッカー部長を紹介。最後に、レアルマドリードTVとの初のインタビューに臨みました。(10日、22時15分放送予定)
14時57分
入団発表。歴史的な瞬間となりました。
15時10分
クラブの2台の車にエスコートされてシウダード・デポルティーバを後にしました。バルダーノ総合部長と共にホッケイに到着。
15時30分
ホッケイには、ミグラッチオ氏、ジダン、ディ・ステファノ名誉会長、ブトラゲーニョ総合部長補佐、バルダーノ総合部長、アマンシオ氏、ペレス会長、フェルナンデス・タピアス副会長が揃いました。
17時30分
ジダンの車はトレホン空軍基地へ移動。ベロニク夫人、子供達と会うためパリへ戻りました。
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| 2001年7月23日 |
| ニヨン合宿に参加 |
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プレシーズンのニヨン合宿に参加。ニヨンに到着した1時間半後、デル・ボスケ監督が最初の練習を実施。マケレレがパートナーになりました・・・7月27日のローザンヌとの親善試合でレアルマドリードでデビュー。 |
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| 2001年7月29日 |
| レアルマドリードで初ゴール |
ニヨンとの親善試合でレアルマドリードで初ゴールを記録しました。
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| 2001年8月19日・22日 |
| スペルコパを制覇 |
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ジダンはサラゴサとのスペルコパに出場。8月19日にラ・ロマレーダで行なわれた第1戦は1対1で引き分け。8月22日にサンティアゴ・ベルナベウで行なわれた第2戦、レアルマドリードはラウルのハットトリックで3対0で快勝、タイトルを獲得しました。
ジダンは第1戦は81分プレイしてモリエンテスと交代。最後の方はかなり疲れた感じでした。未だ、フィジカル面での強化が必要でしょう。ベルナベウでのデビュー戦となった第2戦は70分プレイしてサビオと交代。第1戦よりもかなり良くなっており観衆から喝采が起こってました。 |
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| 2001年8月25日 |
| スペインリーグでデビュー |
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メスターリャで行なわれた1部リーグ開幕戦のバレンシア戦に出場してスペインリーグでデビューを果たしました。
「試合は何時から?」土曜日、ジダンは、リーグがどうなってるのか発見・・・スペインへやって来た時の疑問のいくつかが徐々に解明されていきました。マドリードがトリノよりも暑いこと。ベルナベウが想像以上だったこと。(対戦相手には分からない伝統のある偉大なスタジアムであると言うこと。)誰が来ようともラウルの後に続くこと。この40日間で学んだことです。ジダンは、未だ、スペインのすべての習慣に合わせているわけではありません。シエスタです。
ジダンは、スペインでは試合がかなり遅くになって始まるという説明を受けていませんでした。21時30分開始と言うのはジダンにとっては普通のことではありません。午後3時に試合を行うことに慣れているため。 |
(イタリアではこの時間帯にプレイ)したがって、コンセントレーションの間、試合前の食事を別として時間を潰す術がありませんでした。一方、チームメートは、各自の部屋で試合に備えて睡眠。ジダンは考えに耽っていました。もちろん、ピッチに登場した時、ジダンの目はしょぼしょぼしていました。睡魔が襲ってきたのでしょう・・・選手に渡されているブルーブックには欠伸については記載なし。時が解決するでしょう。順応の問題だけのため。
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| 2001年9月15日 |
| スペインリーグで初ゴール |
1部リーグ第3節のベティス戦でスペインリーグ初ゴールを記録しました。1点ビハインドの15分、グティからのパスを受けてジダンはゴールを決めました。なお、レアルマドリードは1対3で敗れました。
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| 2001年10月6日 |
| アルジェリアと親善試合 |
サン・デニで行なわれたアルジェリアとの親善試合に出場しました。試合はフランスが4対1で勝利。
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| 2001年10月24日 |
| レアルマドリードでチャンピオンズリーグでデビュー |
チャンピオンズリーグ1次リーグ第5節のローマ戦に出場してレアルマドリードのユニフォームを着てチャンピオンズリーグでデビューを果たしました。ジダンは、1次リーグ第4節まで出場することができませんでした。その理由は、昨年のチャンピオンズリーグで退場となり4試合の出場停止処分が未だ残っていたため。
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| 2001年11月4日 |
| クラシコに初出場 |
サンティアゴ・ベルナベウで行なわれたバルセロナとのクラシコに初出場。試合はモリエンテスとフィーゴのゴールでレアルマドリードが2対0でバルセロナを下しました。
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| 2001年11月22日 |
| オンズドールを受賞 |
オンズドールを受賞。ジダンの受賞はユベントス時代の1998年、2000年に次いで3回目、プラティニ(1983年−1985年受賞)と並びました。授賞式は、ペレス会長、ディ・ステファノ名誉会長、バルダーノ総合部長が出席してサンティアゴ・ベルナベウで行われてプラティニから記念碑を授与されました。
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| 2002年1月14日 |
| ムセオ・デ・セーラの蝋人形に |
ジダンは、マドリード市内のムセオ・デ・セーラ(蝋人形館)を訪れました。蝋人形制作のためで完成した蝋人形はラウルと共に展示されます。
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| 2002年3月6日 |
| コパデルレイで準優勝 |
クラブ創立100周年記念の日に行われたコパデルレイ決勝戦、レアルマドリードは、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで、デポルティーボと対戦しました。
試合は、開始直後の6分、トリスタンからのパスを受けたセルヒオが、ドリブルで持ち込みイエロをかわしてゴールを挙げて、デポルティーボが先制。38分、ビクトルからパスを受けたバレロンが右サイドからセンタリング、トリスタンがシュートを放ち、デポルティーボに追加点が入りました。
58分、左サイドからソラリがモリエンテスにパス、モリエンテスからのセンタリングを受けたラウルがゴールを挙げて、レアルマドリードが1点を返しました。レアルマドリードは、終了間際、猛反撃にでましたが得点を挙げられず、結局、デポルティーボに1対2で敗れました。
ジダンは、7試合で2得点を挙げる活躍でしたが、レアルマドリードは、9年ぶりのタイトルを逸しました。
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| 2002年3月16日 |
| クラシコで初ゴール |
カンプ・ノウで行なわれたバルセロナ戦の38分にクラシコで初ゴールを記録。試合はシャビにゴールを許して1対1で引き分けました。
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| 2002年4月30日 |
| サッカー選手の所得番付でトップに |
フランスフットボール誌が発表したサッカー選手の所得番付で、ジダンは、1,360万ユーロでトップに。(年俸が640万ユーロ、インセンティブが40万ユーロ、広告契約料が680万ユーロ)
ジダンに次いでベッカムが1,030万ユーロ、バティストゥータが1,010ユーロ、中田英寿が945万ユーロ、ロナウドが922万ユーロ。ラウルは865万ユーロで第7位(年俸が625万ユーロ、インセンティブが40万ユーロ、広告契約料が200万ユーロ)、フィーゴは850万ユーロで第10位(年俸が610万ユーロ、インセンティブが40万ユーロ、広告契約料が200万ユーロ)。
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| 2002年5月15日 |
| チャンピオンズリーグを制覇 |
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グラスゴーのハンプデン・パークで行われたバイヤー・レバークーゼンとのチャンピオンズリーグ決勝戦に出場。レアルマドリードは2対1でバイヤー・レバークーゼンを下して9度目のタイトルを獲得しました。
試合を決めたのはジダンでした。45分、ロベルト・カルロスのセンタリングを受けたジダンは芸術的なボレーシュートでゴールを挙げました。
ジダンは、チャンピオンズリーグで9試合(3得点)に出場。ボルシア・ドルトムンド戦(1997年)、レアルマドリード戦(1998年)に次いで3度目の決勝戦となったジダンにとって悲願のタイトル獲得でした。 |
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| 2002年5月31日−6月30日 |
| ワールドカップ韓国・日本大会に出場 |
ワールドカップ韓国・日本大会でフランス代表に招集。韓国とのテストマッチで怪我をさせられたジダンが完全復帰できなかったことが影響してフランスはグループステージで敗退。ジダンはグループステージ第3戦のスウェーデン戦の1試合のみ出場。
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| 経歴 |
| シーズン |
チーム |
リーグ |
カップ |
UEFA大会 |
| 出場試合 |
得点 |
出場試合 |
得点 |
大会種別 |
出場試合 |
得点 |
| 1988年−1989年 |
カンヌ(フランス) |
2 |
0 |
|
|
- |
- |
- |
| 1989年−1990年 |
カンヌ(フランス) |
0 |
0 |
|
|
- |
- |
- |
| 1990年−1991年 |
カンヌ(フランス) |
28 |
1 |
|
|
- |
- |
- |
| 1991年−1992年 |
カンヌ(フランス) |
31 |
5 |
|
|
C3 |
4 |
0 |
| 1992年−1993年 |
ボルドー(フランス) |
35 |
10 |
|
|
- |
- |
- |
| 1993年−1994年 |
ボルドー(フランス) |
34 |
6 |
|
|
C3 |
6 |
2 |
| 1994年−1995年 |
ボルドー(フランス) |
37 |
6 |
|
|
C3 |
4 |
1 |
| 1995年−1996年 |
ボルドー(フランス) |
33 |
6 |
|
|
C3 |
8 |
1 |
| 1996年−1997年 |
ユベントス(イタリア) |
29 |
5 |
|
|
C1 |
10 |
2 |
| 1997年−1998年 |
ユベントス(イタリア) |
32 |
7 |
|
|
C1 |
11 |
3 |
| 1998年−1999年 |
ユベントス(イタリア) |
25 |
2 |
|
|
C1 |
10 |
0 |
| 1999年−2000年 |
ユベントス(イタリア) |
32 |
4 |
|
|
C3 |
4 |
0 |
| 2000年−2001年 |
ユベントス(イタリア) |
33 |
6 |
|
|
C1 |
4 |
0 |
| 2001年−2002年 |
レアルマドリード |
31 |
7 |
7 |
2 |
C1 |
9 |
3 |
| レアルマドリード合計 |
|
31 |
7 |
7 |
2 |
- |
9 |
3 |
| 合計 |
|
381 |
65 |
|
|
- |
69 |
12 |
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