RAUL GONZALEZ - BIOGRAPHY
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『ラウルにあこがれて−スペインサッカー少年の夢』は
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1992年7月7日
レアルマドリードへ入団
ラウルは、1977年6月27日、マドリード南部のサン・クリストバル・デ・ロス・アンヘレスで父親ペドロ(電気技師)と母親マリア・ルイサの三男として生まれました。

1988年、地元のサン・クリストバルのアレビンでサッカーのキャリアをスタートさせました。翌年、インファンティルへステップアップ。1990年、父親が熱狂的なファンであったアトレティコ・マドリードのインファンティルに移りました。ラウルは、インファンティルで65ゴールを記録。翌年、カデテへステップアップ。

しかしながら、アトレティコ・マドリードのヘスス・ヒル会長が、ユースチームを廃止したため新たなクラブを求めることとなりました。その頃、最初の代理人となる元レアルマドリードのフェルミン・グティエレス氏と知り合うことになり、1992年7月7日、レアルマドリードへ移りました。

レアルマドリードとの契約は、契約期間が1998年6月30日まで、契約違約金が10億ペセタでした。ラウルは、クラブ史上初の給料の出るカデテの選手になりました。

1992年9月19日
レアルマドリード・カデテAでデビュー
アトレティコ・マドリードから加入したラウル・ゴンサレス・ブランコが、レアルマドリードの公式戦でデビューを果たしました。

レアルマドリードでの最初のチームであるカデテAでアントニオ・キローガ監督によりリーグ開幕戦で起用されました。

シウダード・デポルティーバの古ぼけたグランドで、ラウルは、記念すべき公式戦初ゴールを挙げてアルカラを5対0で下しました。

有望な少年でしたが、デビュー戦を観戦したのは父親のペドロを含めて僅か100人程度しかいませんでした・・・

居合わせた人達は、今日、あの歴史的な出来事の証人になると言う特権を感じているかもしれません。しかしながら、当時、殆どの人は、その後、この線の細いフォワードが世界最高のサッカー選手になることを想像していなかったでしょう・・・
アントニオ・キローガ監督は、「あの最初の日、彼は、先発メンバーの座をを勝ち取った。彼は、個性があり、勝者としての特徴を持ち、歳には相応しくないプレイスタイルだった。すぐに、我々は、彼が、将来有望な選手であることが分かった。」と当時を振り返っています。

【キローガ監督がシーズンを通して起用した選手】
GK:オリベル(コンポステーラへ移籍)
DF:カマチョ(?)、アロンソ(アランヘスへ移籍)、スルド(?)、トリビオ(?)
MF:ナチョ・ラモス(トレドへ移籍)、ドミンゲス(?)、レイ(現役引退)、バレーロ(?)
FW:サバス(マハダオンダへ移籍)、ラウル
1992年10月31日
記録的なゴール達成
レアルマドリード・カデテAのサン・ビセンテ・アトレティコ戦で8得点を挙げました。

1993年6月
”7番”は使用せず
1年目のシーズン、ラウルは、33試合に出場して71得点(リーグで58得点)を挙げました。合計2,506時間(1試合80分)プレイしました。

ラウルは、6番を付けて4試合、10番を付けて25試合、11番を付けて3試合、16番を付けて1試合に出場しました。唯一、アルコベンダス戦に欠場。7番は、一度も付けませんでした。

シーズンを通して警告を受けたのは2回のみ。リーグ優勝、コパ・デ・マドリード優勝、自ら7得点を挙げたマラガでのカデテのスペイン大会で優勝。ラウルは、チームに”勝利者の精神”をもたらしました。と言うのも、シーズンを通して1試合も欠場しなかったため。
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